―――コンコン。
「失礼します」
二度のノック、ドアが開くと同時に発せられる言葉。
侵入者の姿を見とめた男は、ソファに座ったまま重い溜息を吐いた。
「……失礼しないで下サイ。ってーか、どうぞって言ってないんだけど」
非難めいた視線をものともしない侵入者は、足音も荒くリノリウムの床を踏み鳴らす。
「コートに出ろ」
「イヤだ。俺は暇じゃない」
「職員会議は五時からだろ。まだ一時間ある」
「他にも色々あんの。お前の相手なんかしてらんない」
「10分で良い」
「無理」
「っ、いい加減にしろよ!」
「こっちの台詞。っつーか、こんな事に時間割いてる暇あったら練習でもすれば」
侵入者…跡部は唇を噛み、ソファで足を組む越前を睨む。
そ知らぬ顔でその視線を受け流し、どう見ても忙しい様子には見えない越前は、漫画雑誌をパラリと一つ捲った。
もう幾日続いた事だろう。
最近では、昼休みの度に越前を探して回る跡部の姿が、最早当たり前にすらなっている。
学業でも部活でも。また生徒会長としても、何ら申し分無い成績を残している跡部は、事実物凄く顔が利く。誰に口止めしようとも、すぐさま情報は漏れ出し、
結局の所どこにいようと見つかってしまうのだ。
それが分かってからと言うものの、越前は逃げ回る事を止めた。
勿論跡部のしつこさに折れた訳でもない。
ただ単純に、スルーする事に決めたのだ。
「あーマジで続き気になるんだけど。来週休載とかナイでしょ……」
眉根を寄せながらの独り言に、倍以上の皺を刻んだ跡部がキレて、ガラステーブルをバン!と叩く。
飲みかけだったパックのジュースがパタンと倒れ、ストローから僅かに零れたのを横目に、越前が溜息。
「……Quick resentments are often fatal.(短気は損気)」
「…これでも随分待った方だ」
「じゃああと三年くらい待ってて」
「フザケんな!」
「おーまじめ」
そんな遣り取りが続き、数週間が経過した頃。
『跡部景吾が英語科準備室に入り浸っている』と。
そんな噂が氷帝中を実しやかに駆け抜けた。
噂ではなく真実なのだけれど、そのせいで越前が頭を抱えたのは、貴重な昼休みを、放課後を。跡部に会いたい、上手くいけば会話を交わしたい……と夢見る
女子達にぶち壊されてしまうからなのだ。
加えて、教頭から直々な呼び出しを食らい、「一人の生徒を特別扱いするのは……」云々。
じゃあ皆様はかの御曹司の好き勝手にご意見された事が一度でも?と嫌味たっぷりに言い返す事をしなかったのは、単に面倒だったからと、
越前が跡部を取り込んだだの、越前は跡部が氷帝に潜り込ませたスパイだの、色々色々。
尾ひれに背びれにエラまでも付いた様な一人泳ぎが、全くの事実無根だと自信を持って言い放てるからだった。
朝から雲行きが怪しい日だった。
今にも泣き出しそうな重い雲が上空を覆い、降水確率など天気予報に頼るまでも無い様な。
真昼間なのに絶対的に必要な蛍光灯の下で、いつもの如く漫画雑誌を片手にした越前が、跡部に言い放った。
「そんなワケなんで、お前今日からここ、立ち入り禁止ね」
さっさと出て行け、と。
まるで犬か何かを追い払うかの様にシッシと手を振られて、跡部の機嫌が降下しない訳がない。
「俺だって、来たいから来てんじゃねーよ」
「なら良かったじゃん」
「違うだろ!」
「違わないって。何と言われようと、テニスはやらない。お前との試合もしない」
珍しく真摯な瞳で告げられた言葉に、跡部が口篭る。
はいはい、とかわされるのには慣れたのに、切れ長で大きな琥珀色の虹彩に見据えられると、どうしても黙ってしまうのだ。
それと同時に、胸がチリチリと焼ける様に刺す。
その不可思議な現象が気に入らなくて、跡部の眉間には深い皺が寄った。
「……理由は」
「言う必要がない」
「納得出来ねぇ」
「それは俺には関係ないね」
「っ」
ずきん、と。
息が詰まる様な胸の痛みを覚えて、思わず左胸をシャツの上から押さえる。
「第一、なんでそこまで俺に拘るの」
投げ掛けられた言葉に返事は出来なかった。
踵を返して部屋を出る様は、“逃避”に見えただろうか。
ドアが背後で小さな音を立てて締まり、座り込みたい衝動を抑えて廊下を歩く。
昼休みの廊下は喧騒に塗れて。それでも自分の足音がやけに大きくて。
―――なんでそこまで俺に拘るの。
―――そう、俺もそれが知りたい。
降りそうで降らない空を見上げながら、握った拳に力を込めた。
夕方になってやっと振り出した雨は、霧の様に細かくじとじとと肌を濡らした。
梅雨時特有の陰鬱な空気に引き出されるのはどうしたって眠気で、課題の提出チェックをしながら居眠りをしていた越前は、顔と名前が一致しない生徒のプリントに大きな皺が
刻まれてしまった事に気付き、あーあ、と溜息を吐いた。
掌でアイロンをかける様に伸ばしながら、時間を確認すると七時を回っている。
どうりで腹が減った訳だ…と思いながら、プリントを纏めてデスクの引き出しへ入れ、鍵をかけて。
薄い鞄一つの荷物を持ち、英語科準備室を後にした。
置き傘にしておいたビニール傘を片手に。
雨は嫌いだ。
空気がベタ付くし、書類は湿気るし、どう傘を差したって足元や肩が濡れてしまう。
本来なら、家に篭るより外に出ている方が好きで、学生の頃は……。
―――テニスが出来なくなるから、嫌いだった。
自重する様に鼻で笑いながら、昇降口を出て。傘を差し、門へと歩く道の途中。
耳が拾ったのは、聴き慣れた音。
トス、サーブ。籠からボールを拾い、再びトス、サーブ。
延々と続くそれらの音は、まるで何かの音楽に乗せているかの様に正確なリズムを刻む。
この雨の中に置いて、そんな事が出来るのは。
思わず早足で駆け寄ったテニスコート。観戦用スタンドから見下ろした先には、ただ一心不乱にボールを打ち続ける跡部の姿があった。
「跡部!」
思いのほか大きな声が響いて。
あまりに正確だったリズムを止めて、こちらを振り返った跡部は、一瞬驚いた顔をして。
そして、顔を歪めた。
「バ……ッカお前、何してんのか分かってんの!?」
駆け寄って傘を差すものの、すでに全身濡れ鼠になってしまっている相手に、それは大した意味を成さない。
頭上を覆った傘と、越前と。両方をゆっくり見た後、視線を下げた跡部は小さく呟いた。
「……サーブ練習だ」
「そんな事聞いてないって!テニスやりたいんなら屋内コートを使えば良いだろ!?」
「……そうだな」
そう言ったきり、黙ってしまった跡部。
雨は一向に止む気配を見せず、傘を差し掛けている越前の身をも濡らし始めていた。
様子を伺っていた越前が痺れを切らすのは早く、ラケットを握らない跡部の左腕を捕まえ。
「とりあえず、着替えないと。って言うか、シャワーだシャワー!」
強引に引っ張ると、跡部は抵抗を見せず、素直に後に続いた。
張り付いた髪に遮られ、また俯いたままの跡部の表情はよく見えない。
疑問と苛立ちばかりの越前は舌打すらしたい気持ちを抑えながら、何かの美術館か記念ホールの様にすら見える氷帝男子テニス部のクラブハウスへと足を運んだ。
「これが部室……ね」
とりあえず跡部をシャワールームに放り込み、更衣室らしき、絨毯敷きの部屋に備え付けられているソファへと腰を下ろした。
凡そ部室とはほど遠い内装。外観も勿論。
今座っているソファも、何だかよく分からないがツヤツヤした生地で出来ているし、乗せられたクッションもどうやら本物の毛皮仕様らしい。
自分の学生時代とはあまりに違うけれど、今時はこんなのが普通なのだろうか。いや、そんなはずはない、と思う。
ついキョロキョロと眺めてしまうが、次第にそれにも飽きて来て、考えるのは、必然的に跡部の事だ。
跡部を知ってひと月にも満たないが、少なくとも今日の様な無茶をするタイプだとは思い難かった。
横柄で、俺様で、親の顔が見てみたい様なヤツではあるが、年齢の割には大人びていて、冷静で。
ただその情熱だけで無茶をする様な、そんな人間には思えなかった。
―――自分の様には。
そこまで考えた時、カチャリと音が鳴り、部屋のドアが開いた。
腰にタオルを巻き、頭からも同じ物を被った跡部がそこから現れ、静かにロッカー前へと進む。
自然と目で追いながら、オールラウンダーとしてほぼ完璧に近い作り上げられた肉体だな、なんて、そんな視線で見てしまうのは最早癖だ。
その視線に気付いた跡部が眉根を寄せるので、あぁごめん、と反対側へと視線を飛ばす。
「……余計なお世話だとは思うけど」
着替える音を、聞くとも無しに聞きながら。
「テニスが好きなら、今日みたいな事、すんなよ。必要な無茶と、そうじゃないのと。それくらい、お前なら分かるだろ」
バン!とロッカーの閉まる音。
視線を向ければ、制服を身に纏った跡部がこちらを見ていた。強い視線で。寧ろ、睨んでいた。
「あぁ、分かる。けれど、どうしようも無いくらい苛立つ時だってある!」
叫ぶ様に言う跡部に、越前は首を傾げる。
「何にそんなに苛立つってーの」
「お前だろ越前リョーマ!」
間髪入れない返答に、越前の眉が跳ねる。
「え、俺?」
「他に何があるってんだ!」
「いや知らないけどさ。ってーか、俺なの?俺のせい?」
心底驚いた、という様な表情の越前に、跡部は舌打をする。
まだ半乾きの髪をタオルでがしがしと拭いながら、勢いのままソファへと腰を下ろした。
豊かなスプリングがバウンドを返し、隣に座る越前が揺れるが、そんな事に構いはしない。
未だ「何で?」という顔をしている越前に、最早溜息しか出なくて。
けれどその理由がどうしても分からない様だ。
しかし、当然と言えば当然なのだ。
……当の跡部にすら、正確な所は分かっていないのだから。
「え、何。俺と試合出来ないからイライラしてんの?」
「…そーなんじゃねぇの」
「何その言い方。違うって事?」
「知らねぇ」
「何なワケお前。凄い感じ悪い」
「お前に言われたくねぇな!」
互いに眉根を寄せ、これが同級生ならとっくに殴り合いに発展していそうな雰囲気で。
数秒間の睨み合い。
しかし先に折れたのは、さすがに年上である越前だった。
「……だから、テニスはしないんだって」
「……元プロが何言ってんだ」
「調べたワケ。じゃあ、俺が何でテニスしないかも知ってんじゃないの」
「そこまでは踏み込んでない。プライベートな領域だからな」
「俺の過去漁ってんのも、十分な侵害だと思うんだけど」
そこまで言って、はぁ、と。越前は重い溜息を吐く。
そして跡部を見て、呆れた様な表情を浮かべながら、右手を左肩へと添えた。
「ここ、壊した」
至極アッサリとした口調で放たれた言葉に、跡部が目を見開く。
それがテニスプレーヤーにとってどういう事なのか。考えなくても分かる事だ。
「試合中じゃなくて自主練中だったし、シーズンオフだったから。そのまま休業。そのまま引退した」
「何、で」
「無理な負担が掛かってたみたいでさ。本人にはそんなつもり無くても、体は悲鳴を上げた」
気付かない内に壊れてた。
そう語った越前に、跡部は自分を振り返る。
オーバーワーク気味だった自分に施されたマッサージも、雨の中練習する自分に駆け寄って来た事も。それが関係していたのか。
「端的に言えば、無茶やって、肩を壊した。それだけ」
「それだけ……って」
「だからテニスはやらない。って言うかさ、出来ないんだよ」
分かった?と。
明らかに、この話はここで終わりだと。そう告げる空気に抗って、跡部は言葉を続ける。
「でも、再起不能って訳じゃねーだろ?医者は何て、」
「治ったよ。問題ない、もう元通りだ。そう言われた」
「なら!」
「けれど試合になると腕が上がらなくなる」
静かで、けして大きくはない声に、跡部は息を飲んだ。
越前の視線はまっすぐ跡部を射抜いていて、それが冗談でも何でも無い事を如実に示していて。
聞いた事はあった。
イップス……精神的要因が大きく関係している運動障害で、テニスのみならず、多くのスポーツ選手を苦しめる障害だ。
「克服するためにリハビリもした。カウンセリングにも通った。けれど、ダメだった」
どうしても消えない、あの日の激痛の記憶。
足元が崩れ、まるで奈落へと落ちて行く様な恐怖を味わった。
自分の肩が、腕が、自分の物だと感じられない事。感覚の一切を失う事。
ボールに、ラケットに。触れる事を怖いと思う事。
「お前は俺とは違うだろうけど、」
声のトーンを変えて立ち上がり、ソファに立てかけてあった鞄を手にする。
「テニスが好きなら、無茶はするな。これ、大先輩からの忠告ね」
風邪引くなよ!
そう言って部屋を出て行く越前は笑顔で、止める事も、また他に何か言葉をかける事も、出来なかった。
何を言えば良いのかが全く分からなかった。予想外…いや、予想以上の事実に、頭が追いついていない。
もしも、この腕が上がらなくなったら―――。
ゾクリと背中から這い上がる悪寒を感じて、跡部は思わず右腕を抱え込んだ。
テニスが出来ない?考えられない。
右肩を左手で覆いながら、跡部は天井を仰いだ。
真っ白なそこはただ無機質に跡部を見下ろしていて、まるで今日までの跡部自身を責めるかの様に冷たい。
越前リョーマが、一体どんな気持ちでラケットを置いたのか。
それを思うと、ただただ胸が痛くて。
何故だか泣きたくなった。