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3 初めての言葉その2



じんわりとした腕の痺れを感じて、跡部は目を開いた。

―――しまった。

未だ不鮮明な視界を数回瞬く事で何とか拭い、起き抜け一発目の舌打ちは自分へ。
時計を見遣れば午後七時を迎えようとしている所で。どうやら、30分ほど眠ってしまっていたらしい。

ここ数日、跡部は多忙を極めていた。
偏差値テストを目前に控え、その直ぐ後には地区大会が控えている。
その上生徒会の仕事として、学園全体の交流会の執行、来月に控えた生徒総会の準備。
自身の練習は勿論、部長としての責務も疎かにする事など、他でもない跡部自身が許さない。
結果。どれだけ要領良く事を進めようとも、一日の時間が二十四時間なのに変わりはない。
何事も無い様な顔をして、それ故に誰もが、寧ろ自分すらも気付かない所で無理をしていたのか。
堪りかねた心身が出したSOSが、らしくも無い居眠りとして出てしまったらしい。

左手は頬杖。右手にはボールペンを握ったまま。
全体のチェック後に、サインと捺印を必要とする書類があと十数枚。
居残り時間は七時までと決められている。生徒会長がそれを破る訳にもいかない。
不本意ではあったが、残った仕事は翌日に回し。跡部は、専用のソファから立ち上がった。

夜の学園は当然だが明かりも少なく、あまり気持ちの良いものではない。
現実主義を貫く跡部に恐怖は無かったが、静か過ぎる空間に響く靴音がやけに大きくて、少しだけ眉を潜めた。

今日は途中で練習を抜け、生徒会役員会議に出席せねばならなかった。
何か問題があればすぐに知らせる様言っておいたが……携帯に着信はない。
試合を控えているとは言え、未だ地区大会の段階。跡部も部長として部員を牽引するものの、殆どの場合試合に出る事は無いだろう。
シングルス1まで試合が回る事はごく稀。否、あってはならない事なのだから。
関東大会まで、正レギュラーの殆どは試合会場に足を運ぶ事すらしない。当たる学校により数名連れて挑む事もあるだろうが、その必要が殆ど無いほどに、氷帝のベンチ層は厚いのだ。
それが氷帝の誇り。そして自分は、その頂点に立つ者だ。
負ける事は許されない。今年こそは、氷帝の力を全国に刻み付ける年。頂点を掴み取るのだ。

知らず力の篭っていた掌に気付き、息を吐く。
今日はいつも通りのメニューをこなす前に会議に出てしまったせいか、不完全燃焼気味だ。いつも通り、帰宅後にこなすメニューに壁打ち時間を増やそうか。
今日と明日の兼ね合いを計算しつつ、ふと浮かぶのは、一人の男の事だった。

―――越前リョーマ。

あの試合の後、すぐさま調べさせた。経歴、過去、パーソナリティ。
すると、自分を完璧に押さえ込んだあの実力に相応しい結果が上がって来た。

出生はアメリカ。幼い頃よりその突出した才能を開花させ、ジュニア大会では負け無し。
その後日本に数ヶ月滞在、後にアメリカ帰国。
数々の大会で賞を総なめにした、華々しい記録の持ち主だ。
……しかし。ある年から、ぱたりと姿を消している。
それが丁度今から七年ほど前の事。
故障説が濃厚だが、本人及び周囲の口からは何も語られる事はなく、その後の消息は不明、とあった。

そんな男が何故今、氷帝に居るのか。
恐らく榊監督が一枚噛んでいるのだろうが……問うた所で、まず回答は得られないだろう。
調べる事も出来たが、これはあくまでプライベートの領域。知る必要もない。

あれから何度挑もうと、越前がコートに立つ事は無かった。
最近ではどこに居るのか、授業以外で捕まる事がまず無い。

―――舐められたモンだぜ。

自分相手に、利き腕と反対の腕で、あれだけのプレイをして見せた。
その実力はこの身を持って体感したし、だからこそ、今一度ラケットを交えたい。
負けっ放しは性に合わない。そして、それだけではなく。
……ラリーの中で感じた共鳴。
強い相手と戦う事に対する、単純な嬉しさ、楽しさ。けれどそれだけではない、何かが。

それを掴み取りたくて。
あの、体が震えるほどの高揚の正体を……知りたい。

その時。
ぐ、と拳を握りながら、歩を進める跡部が視界の端に捕らえたのは。今正に、思考を支配していた、一人の男だった。
廊下の角を曲がる一つの背中。あれは確かに、越前リョーマの。

跡部は思わず駆け出していた。
練習不足による不完全燃焼か。はたまた先日の試合の結果か。それともまた別の何かなのか。
何が自分を駆り立てているのかは分からないまま、ただ跡部は歩を進めた。
しかし、角を曲がった先の廊下に、その背中は見つけられず。
眉を潜めた跡部が見つけたのは、全て電気の落ちたその教科別準備室の中で、唯一煌々と明かりを灯す部屋。
英語科準備室だった。

何故だか動悸がする。胸が苦しいほどに、痛い。
振り切る様に拳を作り、そのドアを叩いた。

「はい」

くぐもって聞こえる声は、確かに越前リョーマのもの。
「失礼します」と小さく呟いて、跡部はドアを開けた。

「……げ」

半透明の脚立の向こう。皮のソファに座った越前が、発した声に相応しい顔で、こちらを見ていた。
「げ」とは何だ「げ」とは。そう思いながらもそのまま体を押し入れ、跡部はドアを閉めてしまう。

「……流石に今から試合しろ、とか…言わない、よね?」
「……流石に」
「なら良かった」

一応、とばかりに表情を戻し、顔に手を添えた越前が口を開く。

「んで。それなら何の用ですカ。跡部君」

それを聞かれて、跡部は直ぐに答えられなかった。
何の用なのか。それが跡部自身にもよく分かっていなかったのだから。
越前の事を考えていた。そうしたら、目の前に本人が現れた。だから思わず後を追った。……それだけだ。
跡部にとってそれがどれだけイレギュラーな事なのか。自分自身がコントロール出来ないなど、経験した事がないのだ。
だからこそ跡部は、混乱していた。何の用?一体何故?何、何、何。
そして勿論越前にそれが分かるはずもなく。こちらも同じく、疑問符を浮かべるだけ。

しかし、ふと越前が表情を変えた。
訝しげに顔を歪め、ソファから立ち上がる。そして、跡部の目の前まで歩を進めた。

「……調子悪いんじゃないの」

何?と知らぬ内に俯いていた顔を上げると、跡部より少しだけ高い位置にある顔が此方を見遣り、掌が額を覆う。
驚いた跡部は目を見開くが、越前は「熱は無いけど」と小さく呟き、跡部の手首を掴んだ。

「ちょっとこっち来て、座れ」
「な、に」
「いーから」

無理矢理ソファに沈められ、今一度額に触れられる。

「んー……熱じゃない。ダルいとか、しんどいとか辛いとか?」
「……は?」
「自覚症状無し、ね。性質悪いタイプだな」

そしてふと思い立った様に跡部の肩に触れ、眉を跳ねさせた。

「これか……」
「さっきから何言って、」
「気付いて無いワケ?この調子じゃ、倒れるまで気付かないんじゃない」

そうして越前は立ち上がり、跡部の後ろに回った。
肩に手を添え、ぐいと押す。

「っ!?て、めぇ何してっ」
「てめぇ、ね。俺一応センセイ」
「っ……何をしてらっしゃるんですか」
「嘘。何かキモチワルイから敬語抜きでいい」
「……何してる」
「肩。有り得ないくらい凝ってる。それから顔。真っ白だけど?」

血行そーとー悪いね。
そう言って手を動かし始めた越前は、どうやらマッサージを施している様だ。
強弱を付けて施されるそれは、不覚にも心地良さを跡部に与えた。

「……」
「右肩……ここの筋肉。酷使し過ぎだね。サーブ練習力み過ぎってトコ」
「……調整中だ」
「あとデスクワークとか。そう言えば跡部、生徒会長もやってるんだっけ」

じんわりとした暖かさが肩から上がって来る。
普段ならトレーナーを付けて練習する際にマッサージも行うのだが、最近は自主練習のみにしか時間を割けて居なかった。
感じていた違和感、苛立ち。それが肩凝りから成るものだとは気付かず。寧ろ、自分の肩が凝っている事にすら気付いて居なかった。

「無理してんじゃないの」

そう言われて。
すぐさま否定出来なかったのは。
別に無理をしているつもりは毛頭なく、出来るから、自分がやるべきだから。そう誰より自分が望んでいるから。
けれど。
そんな事を言われたのも、初めてで。

しかし、言葉を返す事がどうやら出来そうにない。
思わず目を閉じてしまいそうになるほど、越前のマッサージは巧く、的確だった。
視界が霞む。いけない、このままでは。

「……巧い」
「そ?まぁ、慣れてるから」

何に。
そう尋ねようとして。
跡部の思考は真っ白に溶けて行った。





「……跡部?」

ふと手を止めた越前が覗き込んだ瞳は、しっかりと瞼で覆われていて。
薄く開いた唇から、浅い寝息が聞こえる。

ほんの少しの間だが解した肩によって、頬にも血色が戻っていた。
小さく溜息を吐いた越前は跡部をソファに寝かせ、自分の上着をかけてやる。

「……こうしてるとガキの癖に」

先日、ネットを挟んで対峙した時のオーラは全く鳴りを潜め、今ここで眠るのは年相応の中学生一人。
綺麗な顔をしている。女子生徒が黄色い声を上げている事も、ここに赴任してすぐに知った。
けれどどうやら。器用な様で、不器用なヤツらしい。

「どこが俺と似てるって?……俺、こんなに派手好きじゃないし」

この部屋から見下ろした先のコートにて。練習試合で行われていたある種のセレモニー的な応援に、思わず笑ったある日から。

「跡部景吾……ね」

面白い生徒だ、と。
表情の緩んだ寝顔を見ながら、小さく呟いた。





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