50/50

 

1 「はじめまして」の苦味



ドアノブが押し開かれるその音で、浅い眠りから覚醒する。
無駄にスプリングの利いた沈み過ぎるソファは、座るには適さなくても眠るには最適だ。
この部屋を一時的に居城としている男が自分用に持ち込んだハーフサイズの毛布に包まったまま、瞼を開ける事なく意識を向ける。
リノリウムの床に響く革靴の音。狭い部屋では、衝立に隠されたこの場所へも、ものの数歩で辿り着いてしまう。
降って来るのは溜息。

「サボるなよ、生徒会長」

囁く様な声は、狸寝入りに気付いているのかいないのか。
備え付けのデスクへと向かう背中を薄目を開けて追っても、その真意は分からない。
勝手にセットしておいたコーヒーメーカーから、出来立てが注がれる音。二人分。
“寄付”してやったその豆は、味に無頓着なこいつのためのものではない。寧ろ、自分自身のためのもの。
鼻腔を擽る良い香りが漂う。

五限目開始を知らせるチャイムが鳴り響く。
とっくに起きている頭で、さすがにこの音の中、本当に寝ていたとしても誰だって目を覚ますだろうしな、と思いながら。
しかし、機会を逃したまま。濃くなるコーヒーの香りと靴音に、奴が近付いた事を知った。

「……跡部?」

膝を折り、顔を覗きこむ気配。
目を開くべきか。恐らくバレているはずのこの狸寝入りを、どこまで続ければ良いのか。
部屋に入って来た時点で起き上がるべきだったのか、それとも溜息で、かけられた言葉で、コーヒーの音で?
数分前の過去を遡りながら、目を開くタイミングを計る。

そしてその一瞬の迷いが。

「あ゛っちっ!!」

奴に、コーヒーカップを頬へと押し付けられる隙を与えてしまった。

飛び起きた俺からカップを上手く逃がしながら、にやりと笑う人の悪い男。

「…何してんだよ」
「こっちの台詞。跡部生徒会長、始業ベルは鳴りましたよ?」
「自習だ」
「“自主”自習の間違いだろ、似非模範生」

そしてその手からカップを奪い取り、ひと口付ける。
染み渡るブラック。やはりここに持ち込んで正解だった。寝起きは、これに限る。

「生徒会の仕事なら生徒会室でやれば」

隣のスペースに腰を下ろしたこいつのカップには、ポーションタイプのミルクと角砂糖が二つ。
ガラステーブルからクリップで纏めた数枚の資料を拾い上げ、こちらへ寄越す。

「これは部の仕事だ」
「なら部室でやれば」

尤もらしい事を言いながらも、こいつはけして、俺を追い出そうとはしない。
そこら辺が、言うなれば職務放棄。逆に、らしいと言えばらしい。

「部室まで行くのは面倒だからな」
「ならそれこそ生徒会室でやれば良いんじゃないの。つーか、寝てたしお前」

どうでも良さそうに笑う横顔には、年齢差を感じさせない幼さがある。
それでいて、同年代には持ち得ない、色気も混ざっている。不思議な男。

視線を感じたのか、ふと横を向いて。奴と瞳が交差する。
細められた瞳を縁取る長い睫毛に、まるで誘い込まれる様だ。

そして、この気持ち自体がまるで“勘違いだ”とでも自覚させる様に逸らされた視線に、息が詰まる。

―――なぁ、先生。
少なくとも俺は、自分の気持ちが何なのかが分からないほど、子どもじゃない、つもりだぜ?





そいつがやって来たのは、梅雨入り間近の鬱々とした曇天の日だった。
引き戸を開けたその男に、教室内の空気が一変する。
産休に入ったという英語演習の教師に代わり、臨時教師が来るという事は、前以て知らされていた。
男か、女か。他に楽しみはないのか、と失笑したくなる様な女子生徒数人が、朝一番で職員室を覗いた後、大興奮で叫んだ「超カッコイイんだけど!」。
聞く気はなくとも聞こえて来るほどに大きなその声に、「なんだ男かよー」と非難の声を上げるのは男子生徒。全く、どいつもこいつもくだらない。
そして、期待と落胆が最高潮に達する五限目のチャイムが鳴り。姿を現したそいつは、こう言った。

「越前リョーマ、25歳。じゃ、授業を始めます」

ざわめく教室。呆気に取られる生徒達。
別に何かを期待していた訳でもないが。寧ろどうでも良かったのだが。
……こんなに簡素過ぎる挨拶も、初めて聞いた。
プリントを配る体勢に入っていたそいつ、越前も、その雰囲気に気付いて顔を上げる。
眉間には皺。

「何。何かあるの」
「せんせー、質問タイムとかないのー?」

朝から騒がしかった女子生徒の一人が挙手をしながら声を上げる。

「質問…?どんな?」
「はーい!自己紹介をお願いします!」
「さっき言ったじゃん。名前と年齢」

他に何か?……とでも言いたげな表情を浮かべる越前。
うっと詰まった女子生徒と、若干引き気味のその他大勢。
何だこの空気。と開いていた教科書を閉じて、俺は机に肘を付く。
恐らく、今日は授業にならないだろう。最も、クラス替えが行われたばかりの四月最初の授業なんかは、大概がこういった自己紹介等によるオリエンテーションで 終わってしまうものだ。
俺としては、教科担当が誰であろうが関係無い。自己紹介も必要無い。

どうやらこの空気を悟ったらしい越前は、諦め良く、持っていたプリントを教卓へと置く。

「……何が聞きたいの?」

その言葉を合図に、一部の女子達が嬉々として発言し始める。
授業中となるとだんまりを決め込むくせに、こういった時だけ元気なのは何故だろう。

「出身はどこですか?」
「アメリカロサンゼルス州」
「え、外人!?ハーフ!?」
「日本人」
「血液型はー?」
「O」
「誕生日は?」
「12月24日」
「わぁクリスマスイヴ!」

……とかいう、全く持って授業に関係のない質問ばかりが上がるのも恒例で。
よくもそれだけ思いつくな、と関心するほどに続く質問に淡々と答え続ける越前。
律儀、という訳でもない。生徒のご機嫌取り、というには無表情過ぎる、つまり。

心底、面倒臭がっている。
そしてそれは、この質問に答える事と共に、質問を遮り授業を始める事にも言えるのだろう。
天秤にかけた時、質問に答え続ける方が、僅かに楽だっただけ。ただそれだけ。

よくよく観察せずとも見て取れるほどに如実に現れている表情。
今にも吐き出されそうな溜息に、その顔を必死で見ているはずのクラスメイト達は、どうして気付かない?

―――変な男だ。
ここまでの第一印象は、その一言に尽きた。
問題は、結局授業にならないまま五限目がラスト五分を迎えた、その時だった。

「……じゃーこのプリントは、宿題って事で」

―――ええぇぇぇえ!?

……なんて悲鳴が上がる中、露骨に眉を潜めた越前は、今度は有無を言わさずプリントを配る。
B5の薄紙一枚。何のこともない、教科書に付随している予習復習用ドリルを丸々コピーしたものだ。
その時点で、この若い臨時教師が全くやる気のない人間である事は、よく分かった。
よくこんな男を雇ったもんだ。上は何を考えているのか。
……という事は、英語の授業に何を求めるでも期待するでもない、ましてや必要とさえしていない俺には、どうでも良い事だが。

「期限は来週月曜の放課後。えーと……出席番号1番、跡部」

回って来たプリントをさっさと埋めに掛かっていた俺は、突然呼ばれた自分の姓に顔を上げる。
壇上では越前が視線をさ迷わせている。どうやら聞き違いではないらしい。

「はい」

挙手をすれば、そこで初めてその男と目が合った。
薄いアンバーの瞳は標準より大きく、涼しげな釣り目。確かに造りの良い容姿をしている様だが。

「あ、お前ね。じゃ、全員分のプリント集めて、持って来て」

―――ザワッ!

一拍の空白の後、教室がまるで波立つかの如くざわめく。
越前は今度は驚いた顔をして、しかしそれが何故なのかを尋ねるのは面倒だと思ったのか、 その時丁度鳴り響いたチャイムと共に教室から出て行った。

よくよく思い出さずとも。
この様な雑用を言い渡されたのは、初めてだ。

「あ、跡部様!私が代わりに!」
「あの先生、ご存じないみたいですし!」

普段から何かと煩い自称“ファン”が何人か、俺の机を取り囲む。
それを一瞥して、「いや、いい」と一言。

―――思えば。これが、全ての始まりだったのだろう。
初めて言い渡された雑用に。俺を、色眼鏡で見ない数少ない人間を見透かして。





切欠なんて、何だって良い。
気付いてるんだろ?だったら。

少しヒリつく頬と同じ様な痛みを、胸に感じながら。

初めて知った恋の味は、ブルーマウンテンブレンドの苦さと同じだった。





template : {neut}