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2 革靴に辛酸



「おい」

名を呼ばれた訳でもないのにその言葉が自分を指すのだと気付けたのは、その響きが個人を断定するのにこれ以上なく特徴的だったからだろうか。
出勤時に買った昼食用のアンパンを咀嚼しながら視線だけを飛ばせば、胸元までのエヴァグリーンの向こう、鋭い眼光に見据えられる。

「水曜の昼休みはコートに居ると言ったろ」

不満を溢れんばかりに込めた言葉に、空いたばかりの口からはぁと溜息が零れる。

「だから何だよ。人のランチタイムの邪魔なんかしてないで、この昼休みを有効に使いナサイ」
「何がランチタイムだ。わざわざ中庭なんかで食べやがって。これで逃げたつもりか?」

リョーマの眉間に皺が寄る。

“逃げる”という言葉に即座に反応してしまうのは、元来からの好戦的な性格からか。
けれど、だからと言って。分かった、と立ち上がる気になれないのは。
空腹よりも、何よりも。諦めが先立つからかもしれない。

「あのね、俺も暇じゃないワケ。お前らは勉強して部活に励んでれば良いけど、こっちはそうも行かないんだよ」

最後のひと口を放り込んで立ち上がれば、木立の向こうから横柄を絵にした様な男・跡部景吾の声が飛ぶ。

「監督から許可は出ている。お前がその気になれば、正式にコーチとして迎え入れる事だって出来る」
「……その話は断った」
「勝ち逃げする気か?」
「何とでも言ってよ。それこそ負け惜しみだろ」

そうして翻した背中に、刺さる様に強い視線を受けながら。

「俺はお前と試合がしたい。放課後、待ってるからな」

投げ付けられる言葉に、強く左手を握った。





就任初日は恙無く終わった。もっとも、授業は昼からの二コマのみ、そしてそのどちらもが主に女生徒からの質問攻めで消費されて行ったのだから、 これを仕事と呼ぶのかどうかは怪しい。
何にせよ。着慣れないスーツで肩が凝った。
同じく、履き慣れない革靴の足首をぐるりと回して一呼吸。目指す先の第一音楽室は目前だ。

防音の施された部屋から小さく漏れ聞こえるのはピアノの旋律。
それが古典であれジャズであれ、知識も無ければ興味もない。
ただ、まだ何もない職員室のデスクに、『放課後第一音楽室へ。』とメモを添えたその人が奏でているという事だけは、間違いないだろう。

引き戸の前に立ち、コンコン、と二回ノック。
同時に止まる旋律。よくノック音が聞こえたものだ。

「どうぞ」
「失礼します」

そうして踏み込んだ先、名器ヒストリカルを前にして、今正に立ち上がった男が一人。

「よく来たな、越前」

氷帝学園中等部音楽教諭・榊太郎が、そこに居た。





「座りなさい」

促された先は、場所を移して隣の音楽準備室。
榊の趣味なのだろうか、学校内の一室とは思えないほど整えられた、クラシカルな印象の部屋だった。
そのイメージ通りの猫脚ソファに体を沈め、大理石らしき石で作られたテーブルに置かれるティーカップを、ただ黙って見ていた。

「どうだ?氷帝は」

正面、同じデザインのソファに座った榊は、良い香りのする紅茶にひと口付ける。

「広いです」
「……そうか」

少し笑って、カップを置く。ソーサが小さく鳴った。

「少しずつ慣れると良い。授業もさほどは詰まっていないだろう。…君が教師、というのも、何だか不思議な話だが」

そうしてまた表情を戻した榊に、リョーマはあの、と口を開く。

「ありがとうございます」
「ん?」
「この……仕事の事です」
「ああ…丁度臨時教師を探していると聞いたのでな。推薦しただけだ」

自分に教師は似合わないと。そう話したばかりの口で、そんな事を言う。
榊の考えが読めない。けれど何を求められているのか…それだけは、分かっていた。

「先生、俺は…」
「越前、この後の予定は?」

開きかけた先に言葉を挟まれ、思わず顔を上げる。

「何も無いなら着いて来なさい」

有無を言わせぬその態度に、頷くしか出来ないのは。
榊が向かおうとしている先を、知ってしまっていたからか。

申し訳程度にひと口だけ口を付けた紅茶は、少し冷めていた。





小気味の良いインパクト音。コートはハード。球は……三球。
グラウンドに出て向かう先。徐々に近付いて来る音達に、自然と数や実力を量りながら足を進めてしまうのは、身に染込んでいる習性から。
それに気付いて自嘲気味に笑う間に、見えて来たのはテニスコートだった。

「我が校のテニス部だ。部員数は200名強、今コートで打っているのは、左二面が正レギュラー、右端が準レギュラーの部員達。その他は、半数が交代制で玉拾いと基礎練習、 もう半数が外周のランニングに出ている」
「相変わらずの人数ッスね」

最早遠い昔になった自身の中学生時代を振り返りながら、その頃と変わらない制度に目を細める。
ラリーの練習中なのだろう。途切れる事なく打ち返される球を見ながら、 強豪犇く関東の中で、長年名門の名を受け継いでいる氷帝の片鱗が確かに感じられた。

「榊監督」

その時、眼下の観覧席から一人の声が響いた。
立ち上がり、こちらへ向かって来る学生。……見覚えがある様な、無い様な。

「紹介しよう。越前、彼が我がテニス部を率いる部長、跡部だ」

その名を聞いてようやく思い出す。
服装が変わってしまうと、元より人の顔と名前を覚えるのが苦手な自分だ、ただ一度会っただけの人間を覚えているはずもない。

「改めまして、跡部景吾です。先程は授業でお会いしました」
「あぁ、プリント係の跡部か」

跡部の表情が固まる。

「部長?じゃあ強いんだ」
「氷帝の部長は、最も強い選手のみに与えられる称号だ。跡部は入学以来、誰にも負けた事がない」
「へぇ……」

リョーマの視線が跡部の目に据えられる。
“プリント係”という響きに固まっていた表情を戻し、睨み返す様に挑めば、唇の端で笑われた。

―――何だ、この男。

絶対的優位に立つのが当たり前の様に生きて来た跡部にとって、たとえ自分の事を知らない人間とは言え、ここまで無条件の余裕を示されるのは初めての事だった。
何故だか掌に汗をかく。おかしい、まさか。

―――気圧されている?この俺が?

「監督」

振り払う様に。そして勿論そんな気配は見せない様にしたまま、口を開いた。

「そろそろ自分は失礼させて頂きます。レギュラー達の、」
「跡部」

跡部の言葉を遮り、榊が言う。

「越前と試合をしてみろ」

そして、二人同時に瞳を見開いた。

「榊先生、一体どういう…」
「越前。今の氷帝で一番強いのは跡部だ。お前は、跡部を抑えられるか」
「……知りません。第一、俺はテニスを、」
「おい、誰かラケットを貸してやれ」

近くに居た部員に指示をし、そのラケットが手元にやって来る。
突き返す訳にもいかず受け取るが、困惑していた表情を無表情に変え、榊を見上げた。

「……最初からこれが目的ですか」

榊は小さく笑う。
そしてリョーマは、それを拒む事は出来なかった。

「ワンセットマッチ。サーブは越前から。跡部、異存はないな」
「……分かりました」

ラケットを片手に観客席を降りて行く二人。
異様な空気に手を止めた部員達がざわめきながらそれを見守り、ネットを挟んで二人が立つ。

「……テニス、されるんですね。越前先生」
「……昔ちょっとね」
「榊監督がどういうつもりかは知らねぇが、俺は、負けるつもりはない」
「…そう」

一瞬の攻防。視線と会話のやりとり。
サービスラインへと下がってラケットを構える瞬間。

―――フラッシュバック。夏の日の光。
―――歓声。声援。そして。

ぐっと唇を強く噛み。
リョーマはサーブを放った。





「……嘘だろ……」

部員達のざわめきが小波の様に広がり、波紋を作る。
その渦中、片側では跡部が、膝に手を突き滝の様に流れ落ちる汗もそのままに、射抜く様な瞳でリョーマを睨み。
もう片側ではリョーマが、ラケットを掌で弄びながら、首元のネクタイを緩めている。

スコアは5−1。

氷帝最強を誇る男が、完全に押されている。
相手は今日来たばかりの臨時教師、まだその名さえ知られていない様な男。
スーツのジャケットを脱ぎこそすれ、足元は革靴。
皆、目の前の光景が信じられなかった。

「いくら相手が大人だからって…跡部部長がこんな」
「おい、誰だよアイツ!」
「元プロか何かか?誰か知ってるか!?」

ギャラリーを煩いとばかりに一瞥。
ラケットを肩に当て、首を傾げながら問う。

「まだやるの?もう結果は見えてると思うんだけど」

口元の汗を甲で拭った跡部は、上がった息を整えながら唸る。

「…テメェ、何者だ……」
「自己紹介なら授業の時に嫌ってほどしたんだけどね」
「ふざけんな!」

様子見の1ゲーム目以降、殆どポイントさえ取らせて貰えない状態に居た。
どこに打っても返って来る、いや寧ろ、そこへ打たされている。
どう足掻いても返上出来ない“実力差”が、そこにはあった。

「まだ勝負は決まってねぇ!」
「……ふうん」

リョーマが面白そうに、笑みを深くする。

「じゃあ、続けようか」

そうして再びサービスラインに下がった、その時。

「本気でやれよ」

その声に振り返る。

「利き腕、左だろーが」

顔を覆う右手の隙間、突き刺す様に強い視線が垣間見えた。
リョーマは少し間を置き、空いた左手に力を込める。

「……よく分かったね」
「アーン?舐めた真似してんじゃねーよ」
「負け掛けた人間の言う台詞?」
「俺様相手に手を抜いた事、後悔させてやるぜ」

―――面白い。そう思った。
敵わない力の差をまざまざと見せ付けられても尚、挑みかかる精神力。
実力は超中学生級、この年齢ならば当然の様にトッププレイヤーだろう。
若さ故の荒削りはあるものの、この男はまだまだこれからだ。
1ゲーム毎に少しずつ追い上げて来ている。進化し続けている。

―――まるで昔の自分を見ている様で。

投げる様にしてラケットを持ち替えた。
跡部がにやりと笑う。釣られる様にリョーマも笑う。
そして、サーブトスをした……その時。

「そこまで!」

打たれなかったボールは足元に落ち、コートの二人は声の主を見る。
それまで黙って見ていた榊が立ち上がっていた。

「今日はこれまでだ」
「……何故ですか監督!まだ決着はついていません!」
「すでに一時間が経過した。他の部員達の練習に差し支える」
「ですが!」
「跡部。部長としての本分を忘れるな」

跡部がぐっと唇を噛む。
そして、肩透かしを食らった様な不完全燃焼を抱えたリョーマもまた、榊を見ていた。

「練習を再開しろ。…越前は一緒に来なさい」
「……はい」

傍に居た部員にラケットを返し、観覧席の階段を登って。
最後に振り返った時、未だコートに立ち、こちらを見ている跡部と視線がぶつかる。

ほんの数秒の交差。
それはまるで一瞬。けれど二人にとって、全てを運命付ける様な瞬間。

背を向け、榊と共に校舎に向かう間もずっと、胸が痛くなる様な高揚は続いていた。

「越前。私が何を言いたいか分かるか」
「……いいえ。全く」
「お前には、うちのコーチを頼みたい。勿論手が空いている時だけで構わない」

言葉とは裏腹に、リョーマには最初から、榊の言いたい事は分かっていた。
そもそも、それが無ければ。榊がリョーマを呼び寄せる事など、有り得ないのだから。

そして、それを十二分に分かっていながら。

「……折角のお話ですが、お断りします」

リョーマはそう、口にした。

「……越前」
「さきほど、榊先生が試合を止めたのは。……俺がラケットを、持ち替えたからでしょう」

足を止め、左手を強く握る。

「臨時教師の件も、クビにして下さい。榊先生のお役には立てません」

そうして小さく笑った。
まるで呼吸をする様にラケットを振っていたあの頃。
強い相手と対峙するとこれ以上なく興奮して、高揚して。
勝っても負けても。コートを走っている時が、ボールを追っている時が。一番楽しかった。

けれどそれも過去の話だ。

「何より俺、やっぱ教師なんて向いてないし」

その言葉を聞いても、榊は表情を変えなかった。
そして口を開く。

「……では越前。跡部の事を、どう思う」
「跡部、ですか?」
「そうだ。……お前と跡部は、本質的な部分がとても似ている。……感じただろう」

ボールを、ラケットを通して感じるシンパシー。
そしてそれは恐らく。

「お前なら……今の跡部を進化させる事が出来る」

榊はきっと、そのために―――リョーマを呼んだのだ。

「……俺は、そんな人間じゃ、」
「私はこれから用事がある。ここで失礼するよ」

それだけ言って、榊は去って行った。
残されたリョーマはただ佇み、唇を噛んでいた。

久しぶりに握ったグリップの感触が、未だ掌にしっかり残っていた。





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