濡れた音を立てて唇が離れたのは、互いに息も上がり、瞳が熱に潤む頃。
途中からその顔を抱き込む様にしてソファに付いた跡部の腕の下、薄目を開けたリョーマが、荒い息を繰り返していた。

触れてしまった。
少し冷静になった頭がそう捉えると、湧き上がるのは自己嫌悪。
いっそ熱情のままに流されてしまえれば、胸を掻き毟りたい様な感情は生まれない。
もう二度と手に入らない存在だ。例えこうしてキスを交わしても、それだけは変わらない。
ならば何故、この様に未練がましい事を。

二度と触れる事はないと思っていた。
そんな彼が、自分を求める様を見てしまった。
この腕が例えひと時でも彼に安らぎを与えられるなら、と。そう思ってしまった。

そっと体を離せば、絡んだままの指だけが繋がっている。

「……アンタは、優し過ぎる」

ふいに動いた唇が刻んだのは、独り言の様でいて。
しかし向けられた視線の先には自分がいて、離そうとした指が、それを躊躇った。

「俺はアンタを、都合の良い存在にしようとしてる。分かっててアンタは、それを受け入れようとしてる。……優し過ぎるね」

違うのだと。そう言いかけて、口を噤んだ。
ひと時の安らぎとは、えてしてそういうものだ。例え今、自分が何か言って彼を慰め、またはその体を抱いて背に背負った影を分散させる事が可能だったとしても、それは誤魔化しでしかない。
それによって彼が救われる、などと。詭弁にもほどがある。
それが分かっているからこそ自分は、流される事なく体を離したのだろう。

「ねぇ、聞いても良い?」

カーペットに膝を付いて、跡部はリョーマに視線を合わせる。
横たわったままのリョーマが少し体制を変えた。髪がサラリと頬を滑った。

「アンタも何か、逃げたい事があるの?」

あぁ、気付かれてしまったか、と。
表情に出ていたのか、触れ合った時に流れ込んだのか、それともリョーマが聡いからなのか。
隠しているつもりも無かったし、知られた所でどうしようとも思わない。
ただ、逃げたいという訳ではなかった。リョーマもそうなのかもしれない。結局はその身から幾ら辛くてもテニスを離せなかった様に、彼が最後に戻る場所はコートだ。
そして自分は、全く違う場所に立つ。
その道は、交差しない。

「……いいよ、答えなくて」

初めから期待などしていなかったのだろう、リョーマが息を吐きながら体を起こした。
その体が纏う空気は酷くセクシャルなもので、ともすれば男でも女でも、簡単に落ちてしまうほど危うい。
それは相変わらずと言えた。けれど磨きがかかっていた。跡部自身が眩暈を覚えるほどに。
彼はもう、何も知らなかった子どもではない。自分に抱かれる事しか知らなかった、子どもではなかった。
その事実が、どこか残酷に跡部を蝕んだ。

「婚約発表が、近い」

気が付けば、そう呟いていた。
別の場所を見ていた視線が跡部の元に戻り、色を変える。何の意味を含んでいるのかは分からない、けれど何かしらの想いを抱いた瞳が、跡部を安心させた。

「逃げたいと思っても、逃げられないだろう」

お前も、俺も。
そう言って、繋いだままの指に力を込めた。離れぬ様。
自分の唇が笑みを刻むのが分かる。その顔を、リョーマはどんな思いで見ているのだろう。どう思っただろうか。滑稽に思っただろうか。それとも、何も思わないのだろうか。

「……お前のために差し出せるはずの腕が、違う女のものになる」

その瞬間、確かにリョーマの瞳が揺れた。あぁ傷付けた。チクリと胸が刺す様に痛んだけれど、それよりも大きな満足感に包まれる。
彼は今でもまだ、この腕を欲しがっている。

「俺を優しいなんて、言うな。俺も俺の都合の良い様に、お前を扱ってる」

スラスラと、まるで用意したかの様に言葉を紡げたのは、何故だろう。
リョーマの瞳の奥に影を見つけてから。その心身の成長を目の当たりにしてから。決して近づけない壁を感じてから。
自分の知らないリョーマを見てから。
胸の奥で、隠れていた傷が開いたかの様に血が溢れ出す。ドクドクと音を立てて、薄暗い感情で跡部を支配しようとする。

繋がっていたいと確かに思う気持ちの真逆で、もういらないと耳を塞ぐ自分がいる。
完全な矛盾に、突き放す様な言葉。けれど指は離せないでいた。

求めて欲しいと思う。自分も彼を求めている。
けれど、振り切ってさよならを言って欲しい。もう逃げ場所を、用意してやれないのだから。
誰か優しい人のもとへ行け、と。そう微笑んでやれるほど、自分は出来た人間じゃない。
ならば突き放して、背を向ける事が彼のためで、自分のためだ。
もう、知らない顔を見るのも、知らない空気を感じるのも、嫌だった。

ただ傍に居るだけで辛いほどに、今でもまだ、自分は彼に恋をしている。

ふいにリョーマの右腕が動いた。細長い指先がゆっくりと宙を動き、跡部の頬に触れた。
ビクリと肩を震わせた跡部が顔を上げると、今にも泣き出しそうな瞳の中に、自分の顔が映り込んでいる。

リョーマは笑っていた。

「嘘がヘタなのは、相変わらずだね」

そう言って頬に触れた指は滑り、下唇をそっとなぞる。

「俺の存在がアンタのプラスになる事なんて、後にも先にもナイじゃん。それなのに、そんな俺を都合良く扱うなんて……出来る訳がないでしょ」

ただ苦しめるだけだ、と。
そう囁いたリョーマは、いとも簡単に、繋いだ指を解いた。簡単過ぎて、跡部に追いかける隙を与えないほど、簡単に。

そして立ち上がり、背を向ける。

「ごめん。もう、帰って」

その背中が示す拒絶に、跡部は今一度息を詰めた。
同時に湧き上がるのは衝動だった。そして既視感にも似たリフレイン。
この背中を、どうする事も出来ない自分は、見送ったのだ。三年前のあの日。

跡部は動いていた。
先ほど彼を引き寄せた時と同じ。まるで頭に血が上ったかの様に瞬く視界の中で、何かを考えてした訳ではない。
ただもう、その背中を黙って見送るのはゴメンだと思った。

後ろから抱いた体は、酷く冷たかった。
首元から香るのは彼の香りで、しっかり覚えていた様で、けれど忘れていた様で。
振り払おうと力を込める体を押さえつける様に抱き締めれば、フッと力が抜かれて、大人しく腕に収まる。

「……矛盾してるのは分かってる。俺とお前は離れた方が良いのも分かってる。だから実際、三年間も別の場所にいた。それでも何とかやって来た。けどなぁ、もう……」

大人ぶって大丈夫だと笑えるほど、出来た人間じゃないから。
どんな弊害が付いて回っても。今が良ければ良いと思ってしまうほど、幼いままだから。

「……俺を、求めてくれ。……リョーマ」

ビクリと背中が震えたのが、体越しに伝わって来た。
三年ぶりに刻んだその名前に、唇が懐かしさを感じて。
この瞬間だけの衝動に身を任せてしまっても、きっと後悔などしない。
跡部を取り巻くどんな感情も全て、向かう先は一つだった。
ただ、リョーマが愛しいのだと。

「……アンタ、ほんと……バカだよ」

そんな呟きが聞こえて。次の瞬間、リョーマが体を反転させた。
縋りつく様に背中に回された腕が震えていて、肩口に埋められた顔からしっとりと伝わるのは涙。
泣かせてしまったと。けれどその事実さえもどこか嬉しくて、自覚した歪んだ感情に自嘲の笑みを浮かべた。

「今だけでも良い。ここに……いて。……景吾」

囁かれた自らの名前を、掬い取る様に口付けた。
優しく、深く。もう余計な事を、互いに考えないでいい様に。思考が白く霞むなら、その方が都合が良い。

このひと時が永遠であればどんなに良いだろう、と。
叶いもしない夢を抱き合って。

ただ今は、触れ合っていたかった。
それだけだった。





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(2006/08/24)

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