もっと大人になれたならと思いながら、子どものままでいたかった。
幼い自分を許せたなら、欲しいと叫ぶ事も厭わない。
でも、出来ないと思った。子どもでいる事も、まして、大人になる事も。
ならどうしたらいいのかって。

問いの答えを、あなたは返してくれるだろうか。





嗚咽を漏らす代わりに何度目かの息を吐いて、リョーマは小さく震えた。
それを合図と受け取った跡部が少しだけ力を緩め、そして二人の視線が合う。

涙の跡を色濃く残した頬は白く、幾重にも連なる筋が照明に光っている。
長めの睫毛が濡れたまま縁取る瞳は、潤んではいてもその光彩が湛える強さは変わらない。
それはそう、跡部がよく知るリョーマの瞳で、けれどその奥に宿る影は彼の知らないものだった。

三年の月日は、確かに二人を隔てている。

ふいにリョーマが笑って、その場の空気が変わる。
それは自嘲めいた笑みだった。引き攣る様に上がった頬の筋肉は、無理矢理動かされたものの様に見えた。
跡部の喉の奥で、グッと息が詰る。苦しい。そう彼が認識する前に、リョーマが口を開いた。

「夕飯、食べた?」

俺まだなんだけど、と。
リョーマの視線を追って自分の腕時計を見やれば、長針はすでに午後八時を指している。ディナーの時間としては、少し遅い頃かもしれない。

「いや、俺もまだだ」
「じゃあ何か食べない?ルームサービス。奢るし」

そう言ってリョーマは潔く立ち上がり、ね?と跡部に微笑みかけた。
その直前までの雰囲気から未だ抜け出せていない跡部は多少面食らいながら、つられる様に立ち上がる。
ロック解除済みだった観音開きの扉を開けたリョーマは、視線で促す様にして、跡部を部屋へ招き入れた。

跡部グループ所有のホテルの中でも、国内のものでは上位五本の指に入るそのスウィートは、跡部自身非常に気に入っている部屋だ。
世界中の要人が利用する高級ホテル。調度品も、景色も、サービスも、ファーストクラスでなければならないのは、言うまでも無い。
白い大理石の階段を数段降りれば広がるのはリビングで、バーカウンターやテラスに続く大きな窓、十人は座れるかというソファが目に入る。
ガラスのコーヒーテーブルの上、活けられた薔薇の花弁が、何枚か散っていた。

牛革のソファに身を沈めた跡部は、その背中の曲線に視線をやる。彼が動くたびに皺の位置を変えるシャツは白く、骨格の成長を浮かび上がらせていた。
素直に感慨深かった。三年の経過をこの上無く物語る彼の背中が。

「ちょっと時間かかるって。それまで、何か飲む?」

ルームサービスのオーダーを終え、受話器を置いたリョーマの声にあぁと返して、跡部は視線を逸らした。
見ていたくなかったのは、リョーマの前にある透明な壁。たった十数歩先にいる彼が、本当ならとても遠い所にいるはずだという事実。
そして、今更ながらにそれを実感して少なからず戸惑っている自分だ。

赤ワインのボトル片手に、二つのグラスをコーヒーテーブルを置くカタンという音で我に返った跡部は、視線を上げてリョーマを見た。
リョーマの視線は散った花弁に向けられていて、触れようと思ったのか、伸ばしかけた指は結局何も掴まずに戻った。
よく見ればそのボトルは開けられていて、中身は半分ほど減っている。キュ、と小さな音がしてコルクが引き抜かれると、芳醇な香りが広がった。

「飲みかけで悪いけど、俺一人じゃ全部は空けられそうに無いし。協力して貰える?」
「あぁ、構わねぇ」

トクトクと注がれるワインを見て、思う。似合わない。そんな言葉を噛み殺した。
ワインのボトルを開けたのはリョーマで、その中身を消化したのもリョーマで。
三年前の彼とて、一滴も飲まなかった訳ではなかった。その場の気分や雰囲気で、二人で、洋食に添えられたワインやシャンパンを開けた事もある。
勿論未成年で褒められた行為では決してなかったが、けれど酔い潰れるほどに飲んだ訳ではない。それに彼は、見た目の幼さに反して意外とアルコールに耐性がある様だった。
けれどこんなホテルのスウィートで、一人ワインのボトルを開ける。そんな姿は、似合わないと。
喉元まで出かかった言葉をけれど飲み込んだのは、似合わない、などという言葉は、三年前までの彼に対する言葉だからだ。
例えば跡部が、車を運転出来る年齢になっている様に。……彼も変わっている、確実に。

「昨日……」

注がれたばかりのワインが揺れるグラスを持ち上げて、リョーマが呟く様に言った。

「手塚先輩と会った。って言っても、ここに来て貰ったんだけど」
「あぁ、聞いた」
「そう……やっぱ、そうだったんだ」

何が、と聞く事も無い。手塚の言葉が無ければ、自分がここでこうしている事は無かっただろう。
会って話がしたいと思っていたのは事実で、切欠次第で、こうして自分はここに出向いた。手塚に見抜かれていた、燻っていた感情を隠す事も誤魔化す事も、出来ないくらいには。

「あの人、見かけによらずお節介だよね。それか、じれったくなったのかも」
「それは……」
「俺の絶不調。勘付かれてたみたいだし」

そう言ってワインを呷ったリョーマに、表情はなかった。
グラスを揺らす様に遊ばせたまま、リョーマはソファの背凭れに首を預け、天井を見上げた。真っ白な壁と一続きの天井には、一点の染みも無い。
未だ手の付けられていない跡部のグラスには、そんなリョーマが歪んで映っていた。
確かな隆起を示す喉仏が、その白い喉を上下させた。口に含んでいたワインを飲み下したのだろう、彼の手のグラスの中身は、半ばほどに減っている。
ペースが早い。けれどその頬の色は全く変わらない。随分慣れているんだな、と言いかけて、また黙った。

何を話したらいいのか、分からなかった。
ここに来るまでの車の中で、思っていたのは一つだけ。
日本に帰国し、滞在先にこのホテルのこの部屋を選んだ理由。それを知りたいという思いだけ。
けれどそれに絡むのは、自分自身のエゴだった。
もしかしたら、と。そんな淡い期待めいたものを捨てられない女々しさ。
そして叶うなら、彼の助けになりたいと。
彼の心底愛したテニスが、彼を雁字搦めにしている、跡部にはそう思えて仕方なかった。そうでなければ、何故あんな表情をしているのか。跡部の知るリョーマは、リョーマのテニスは、あんなものではなかったのに。
けれどそれさえも、やはりエゴだ。話を聞いた所で、何をどう出来るという確信は無い。また、話してくれると言い切れるはずもない。
ならば何なのか。答えは出ている。
スッキリしたいだけなのだ。そして、ヤケになっているだけ。
婚約発表を目の前にして、過去を清算したい……などと、綺麗事を言うつもりは無くても、実際にはそうなのだろう。
帰国の理由が自分であれば良いなどという思いも、断ち切れていない想いを今度こそ清算したいという思いも。
真逆の理由を引き摺ってエレベーターに乗った跡部が、けれど現実に起こした行動は、そのどちらでもなかった。

渦巻いていた感情が、ストンと音を立てて落ちた。
重苦しく体の中心で疼いていた、胃の中に溜まった石の様な感情が抜け落ちたのは、一目その姿を見た瞬間。

ただ自分は彼が愛しい。
そしてこの腕に抱きたい。残ったのは、ただそれだけだった。

けれど今、抜け落ちたはずの感情がまたジワジワと体を浸食して行くのが分かる。
つい先ほど囁いたはずの言葉に反して、また、何も言えない自分がいた。
勝手な事ばかり言って、時には相手の気持ちを無視してでも、強引にこちらを向かせるなんて。
もう、出来るはずもない。

「……何も話さないんだね」

ふと呟かれた言葉に反射的に顔を上げた。
違う。話せないんだと。そう言ってしまう事を、跡部の中の何かが止める。
今一度絡んだ視線に、広がる感情。

ただ彼が好きだなどと。それだけで行動を起こせるほど。
綺麗なままでいられるはずがなかった。

「お前は、何で……」

そこで言葉を詰まらせて、跡部は視線を伏せる。
何故ここに居るのかと。その問いの答えが何であったとして、自分はどうするのだろう。
アンタに会いたくて、などという甘い言葉を期待している訳でもない。
ただの帰省、などという見え透いた嘘もいらない。
ならば自分が引き摺っていた理由の後者……過去の関係の清算、ならばどうだ。
そう答えるだろうという大凡の予想の中で、けれどはっきりと。
それを悲しいなどと思う自分を自覚しているのだ。
酷い矛盾。自分が抱いている理由を、彼には持っていて欲しく無い、など。エゴにもほどがある。

「……こんなに辛いのは、初めてだ」

ともすれば聞き逃してしまいそうな声量で、けれどそれは確かに跡部の耳に届いた。
伏せていた視線を上げれば、今度はリョーマの視線が逸らされた。天井へ、そして、散った薔薇の花弁へ。

「いっそ、辞めようかと思ったんだ」

何を。
一瞬の疑問は、答えに直結した。
そして跡部を唖然とさせた。

「何……でだよ」

声が震えたのは何故だろう。どうして、こんなにも声が強張る。
どこか遠い思考で冷静な自分を感じる。けれど実際の自分は、明らかな動揺を体現していた。
それをチラリと見やったリョーマが、分かってる、という風に息を吐く。何が言いたいのかは分かってる。だから少しだけ、話を聞いて欲しい、と。そう言っている様な溜息だった。

「公私混同は、しない」

まるで、用意された台本を読み上げる様な言い方だった。
空を捉えた視線はどこか遠くを見ている様で、それでいてしっかりと前を見ている。

「コートの外であった事を、中に持ち込まない。ラインを踏み越える瞬間に全て忘れて、後はボールと相手しか見ない。考えるのは試合の事だけ。……これが出来ないと、失格だ」

プロとしてだけでなく、いちプレーヤーとして。
そう言ったリョーマは、少し笑った。痛い笑顔だ。跡部はそう思った。

「……出来てないんだよ、今の俺は。出来てないのに、」

勝ってしまったんだ、と。

空になったグラスが、コトリと音を立ててテーブルに戻される。
グラスを持っていた左手がそのまま顔へと運ばれ、リョーマは瞳を覆った。今一度首を預け、天井を向く。
唇は依然、笑みを刻んだまま。どこかアンバランスな行動は、そのままリョーマの心境を表しているかの様だ。

「辞めようと思ったのは、テニスだけじゃない。何もかも、辞めてしまおうと思った」

空いていた右手を左手の上に重ねたリョーマの視界は、今や完全に塞がれている。
それは拒絶の様でいて、SOSの様にも思えた。
泣いているのかと思ったが、唇の形は変わらない。紡がれる言葉にも、震えはなかった。

リョーマを支配しているのは、深い自己嫌悪だった。
何よりも大切にしていた、彼の人生そのものと呼べるテニスを、踏み躙っているという自己嫌悪。
プレーヤーとしてのプライドがボロボロと崩れて行く。今まで費やして来た全ての時間が無駄だったのだと、嘲笑う自分がいた。
何かから逃げたくて、ボールにストレスを叩き付けた。そしてそれがまた、ストレスになって返って来た。
逃げたかったのは、テニスから。自分から。世界から。……全てから。

「でも、何でだろう。……辞められない。もういい、って思うのに、ラケットを握っていないと死にそうになる」

そうして巡る、自己嫌悪の繰り返し。
それは確かに蓄積されていて、リョーマはギリギリの所にいた。

「……見なきゃ良かった」

少し声色が変わった気がして、跡部はリョーマを見やる。
目を覆っていた手を外し、その瞳が露になっていた。ただ、天井を見上げたままの瞳が幾度か瞬いて、そして最後にギュッと瞑った。

「あんなメール、見なきゃ。そしたら俺は、思い出さずに済んだのに……っ」

あの頃の自分には、確かに逃げ場があったのだと。
思い出したら、もう。……どうしようもなかった。

たった今耳に入って来た言葉が、霞の様におぼろげに、けれど確実に、跡部の思考を支配して行く。
燻っていた感情が、再び抜け落ちる感触を覚える。
駄目だと思う思考が追い付かず、寧ろそれを振り切る様に、何も考えない様に、跡部は右手を伸ばす。
指先に当たるのは手を付けないままのワイングラスで、それを掴んで、一息に飲み下した。
鼻腔に突き抜ける芳醇な葡萄の香りに酔うよりも先に、しなければならない事がある。

真正面に座るリョーマの、左腕を掴んだ。
弾かれた様に瞳を開くリョーマの拒否を受ける前に、その体を力任せに引き寄せた。
リョーマの膝がぶつかって倒れたワイングラスが、軽い音を立てて床に落ち、割れる。
その音を聞きながら、ただもう、迷うのは無しだと自分に言い聞かせる。
飲んですぐに回るはずも無いアルコールの勢いでも、何でも良い。言い訳が必要なら、後で考えれば良い。
ただ今は、一つの想いしかなかった。

低いコーヒーテーブルに膝を付く形になったリョーマを無理矢理横抱きに抱え上げて、自分の座っていたソファに沈める。
思考が追い付かないのか、唖然としたままのリョーマに乗り上げて、顔を近づけた。

「思い出せよ。お前には、俺がいるだろう」

何を勝手な事を、と。思考の向こう側で自分が責める。
抜け落ちた感情を拾い上げようとする自分を、もう一人の自分が蹴落とした。いとも簡単に。
なら、これが正しい。いや、正しいかどうかなど、どうでもいい。
ただ今は、彼にあんな表情をさせるのが嫌でしょうがなかった。

長めの前髪を掬い上げて、露になった額に口付けた。
ビクリと体を強張らせるリョーマの頬を撫で、そのまま唇を滑らせる。
瞼に。鼻筋に。米神に。頬に。
そして唇に触れようとした瞬間、跡部が動くより先に、リョーマの腕が、跡部を引き寄せた。

噛み付く様なキスに、跡部はそっと目を閉じる。
互いに薄く開いた唇、舌が絡むのは酷く性急で、どこか幼ささえ含んで互いを繋いだ。

何も考えられなかった、考えたくなかった。ただ今は、触れ合っていたい。
そうする事が単なる逃げでも、なら逃げれば良いと思った。
この瞬間だけ。東京都心のど真ん中に聳え立つ、高級ホテルのスウィートルームの、隔離された空間で。

探り合う様にして繋ぎ、絡めた指は、解けそうになりながらも確かに二人を繋ぐ。
離さなければならない瞬間を知っているから、それを少しでも遅らせるかの様に力を込めた。

コルクが抜けたままの赤ワインのボトルだけが、二人を映していた。





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(2006/08/24)

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