チン、と控えめな音が鳴り、最上階へとエレベーターが到着した事を知らせる。
疲れた足を引き摺る様に運んで、長い廊下の一番奥へと歩を進める。
プロとして、今日の練習は最悪の極みだった。
苛立ちを全てボールにぶつけ、疲労を訴える体に鞭を打って、へたり込む足を許さず、上がらない肩を許さず。
何も考えられないくらい疲れてしまいたかった。心底疲れてしまえばきっと、今朝の様な夢は見ずに済む。
その結果体を壊しても、もうどうでも良いと思った。
部屋の前につき、カードキーを通した。小さな電子音が鳴って、ロック解除を示す緑色のランプが点灯する。
けれどリョーマは、ドアノブを押し開こうとはしなかった。体の力を抜き、その場にズルズルと座り込む。
スウィートへと続くエレベーターは直通。一本しかない幅の広い廊下には、部屋の中と同じ、豪奢な絨毯がひいてあった。
ラケットバッグが床に落ちる。中のラケットがガチャリと鳴って、そしてまた静かになった。
無音が嫌いだ。思い出すから。
肌を粟立てる様なテノールが響いて、名前を呼ぶ。
中学時代、今と同じ様に壁にぶち当たって、縦社会の窮屈さを味わって、テニスも何もかも上手く行かなかった時。
苛立ちをぶつけて酷くあたって仕舞いには泣いた事がある。
黙って聞いて、抱き締めてくれた腕の強さを、忘れた事など一度も無い。
自分がしたい事も、しなければならない事も、とっくの昔に分かっていた。けれど目を背けて我慢を続けたせいか、それが再びあやふやになっている。
結局は何も変われなかった。全てを捨てて渡米して、今はもう、幼い頃から漠然とした憧れと夢を描いていた世界へと身を置いている。そして先日、四大大会の一つを制する事で、また一つ高みへと登ったはずだ。
それなのに自分は、この地に、あの頃の想いを丸々抱えたまま舞い戻っている。
何をすれば良いのだろう。どうすれば、この想いを捨てる事が出来る。
今更どんな顔をして、彼に会えば良いと言う。
そして会って、何を言えばいいのだろう。
彼と自分では、立つべきステージが違い過ぎる。そしてそれらが交わる事など、有り得ない。
互いの存在はスキャンダル。邪魔にしかなり得ないのに。
許されない想いを抱き合うのは、あの三年間で終わりにしなければならなかったのに。
結局今日一日、昨日手塚から送られてきた彼の番号へと、コールする事は出来なかった。
意地かもしれない。虚勢かもしれない。それとも、怖かったのかもしれない。
声を聴いた瞬間に溢れ出すだろう想いを、認めればそこで弱者は自分だ。結局世界を相手に一人、立つ事は無理なのだという事を認めてしまう事に直結する様で。
あの時、三年前のあの最後の夜、ベッドの中で彼が言ったセリフを覚えている。
アメリカでの生活の保障、最高のトレーナーと設備、一身にテニスへと打ち込める環境。その全てを与えると言った向こうのプロチームは、リョーマがアメリカへと帰国する事を心待ちにしていた。
そしてそれはテニスプレーヤーとして、とても名誉な事だから。
「おめでとう」
らしくない響きで、彼は笑ったのだ。
その笑顔の意味を知っている。彼もまた、自分自身がそうであった様に、相手の未来の事を最優先に考えたのだ。
それは確かな、愛の形だった。
チン。
控えめに聞こえて来たのは、エレベーターの到着音。
それは確かにリョーマの耳へと届いてはいたが、それが何を意味するのかは考えようともしなかったし、思いつきもしなかった。
最上階のスウィートルーム、最上階はワンフロア。
絨毯を踏みしめる微かな足音。ゆったりとした足取り。
それは、リョーマの目の前で止まった。
「前にも、同じ様な事があったな」
そして彼はいつも、見計らったかの様に絶妙のタイミングで、リョーマの前に現れる。
「あれは……四年くらい前か。上の奴らと揉めて、ラケットをへし折られた時だ」
座り込んで俯いたリョーマの全身を覆う様に、その影は伸びていた。ふわりと漂う香水は、あの頃と同じもの。
「あの時もお前は、俺の部屋の前でこうやって、座り込んでたな」
何で、ここにいるの。
そう呟けば淡雪の様に溶けて消えてしまいそうな気がした。それが幻想でも幻影でも無く本物なのだと、気付いていたのに。
「懐かしいな……もう四年か。お前とも……三年ぶりだ」
リョーマは顔を上げた。目の前にあったのは、膝を折って座った跡部の顔で、例えば三年前ならそこには胸なり首なりがあったはずだった。一気に縮まった身長差のせいで、その青い瞳が真正面から見える。
「……ったく、身長だけ伸びて、何も変わってねぇな、お前」
夢の中の彼よりも幾分か大人びた跡部が、そこに居た。
「何で来たんだよ」
「来ちゃマズいのかよ」
「……かなりね」
今一度俯いたリョーマの頭が少し揺れる。笑っている様だった。
深く息を吸って、吐く。それは言葉にするのが難しいほど重い、彼が一人で抱えた苦悩を物語る様で、跡部は少し、顔を歪めた。
「……ごめん」
「何で謝る」
「俺は、アンタの前から消えた人間だから」
「テレビにあれだけ出ておいて、よく言うぜ」
見ていたのか、と。
見ていてくれるかもしれない……と、少し期待していた自分。
自分から断ち切った関係の、一筋に縋ろうとする内面。汚い、自分は。
……分かっていても、それでも。
心臓が大きく脈打つ。嬉しいと。そう泣いている様だった。
暫く二人は動かずに、そこに居た。
リョーマの体からは相変わらず力が完全に抜かれていて、その両腕はだらんと床に落ちている。
跡部は座り込んだ姿勢のまま、その頭頂部を見るとも無しに見ていた。
互いに、ふつふつと湧き上がる感情が何なのか、分からないほどに子どもじゃない。けれどそれを容認し行動に及べるほど軽率でも無かった。
三年の月日が変えたのは、何も身長差だけではない。
「アンタさ」
「何だ」
「変わんないね」
「お前も、変わったのは身長だけじゃねぇか」
「……そ?」
再び沈黙が降りる。
リョーマの胸中は、意外にも穏やかだった。驚きは無かった。手塚に連絡を取った以上、近い内にこうなるだろうという予測は容易に立っていた。ただ、居合わせた場所は最悪だったけれど。
穏やかなのは、諦めをも含んでいたからかもしれなかった。今その空気を間近で感じて、どうにかなってしまいそうなほどに昂ぶる感情に、覚えがある。しかしそんなものを抱いたからと言って、どうこう出来るものでもない。今もし動いてしまったら、三年が全くの無駄になる。あの時の、身を切る様な痛みも、きっと彼に残したであろう傷跡も。
「立てるか」
跡部が差し出した手をリョーマが掴む事は無かった。
ただ俯いたまま、消え入りそうな声で呟いた。
「……帰ってよ」
跡部はピクリと片眉を跳ね上げ、けれど何も言わずにそっと、差し出したままの腕を下ろした。
リョーマの体は心なしか震えていた。泣いているのか、それとも自嘲しているのか。そのどちらでもない感情に揺さぶられているのか。跡部には分からなかったし、例えばそれは言葉に出来るほど簡単で単純な感情ではなかったのかもしれない。
「迷惑か」
続いた跡部の言葉に、リョーマが肩を大きく震わせる。
求めて求めて、枯れるほどに求めた存在が、今、手を伸ばせば届く距離にある。
今、跡部を拒絶する事。それはきっと三年前にした決意と同じ意味を持っていて、今でも変わらないだろう。互いの未来のためなのだから。
けれど感情が完全に抜け落ちた様な跡部の声に、まるで鈍器で殴られた様なショックを受ける。
また、傷つけた。
大切なのに。
大切に思い過ぎて、傷つけた。
「でも」
そして次の瞬間、リョーマの体を何かが覆った。
それが跡部の体なのだとリョーマが気付いたのは、数秒のタイムラグを経ての事だった。
「帰る訳には行かねぇな」
心臓が、面白いほど顕著に、鳴る。
一つ、また一つ。まるで胸骨を突き破って飛んで出るのではないかと思うほど、大きく高鳴った。
首筋に彼の吐息、頬の感触。
背に回された腕、指が肩甲骨の形を確かめるかの様に滑って、大きな掌を感じる。
跡部景吾に抱かれている。
その事実を体が受け止めた時、リョーマ中で何かが切れた。
ポロリ。一粒の涙が、その瞳から零れ落ちる。
張り詰めていた糸が切れたかの様に、それは止め処なく零れ続ける。
声を上げる事は無かった。嗚咽を上げる事も、息をする事すら忘れていたかもしれない。
「お前にとってどうかなんて、考えるのはもう止めだ。……俺が、どう思うか。それだけで十分だろ」
気付くのに三年もかかったが、その方が俺らしいだろ?……と。
響くテノールが何を言っているのか。距離が近過ぎて、耳よりも脳が先に認識する。
だから、避けられない。
跡部から向けられたベクトルを突き返し突っぱねる強さは、今のリョーマには無かった。
跡部の腕に力が篭り、リョーマの後頭部に添えられた手が少し強く引き寄せる。
リョーマの目元が直接跡部の肩に当たり、涙にぬれた頬からシャツへと染みを作った。
「お前の泣き顔を隠すのも、俺の仕事だったからな。……泣けるなら、好きなだけ泣け」
泣き場所は、ここにあった。
弱音も、涙も。一切を閉じ込めて走り抜けて来た三年間。
泣きたい時に泣けなかったのは、自分の泣き場所はここに置き去りにしたままだったからなのだと。
三年分の涙を流しながら、リョーマは、跡部の背に腕を回した。
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(2006/07/17)
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