ピンク色のシャンパンにルビーの苺を落として、プリティー・ウーマンごっこ。
銀色のトレイの上で弾ける炭酸の飛沫が、空中で割れて消える。綺麗に。
それはまるで、ハリウッドの世界を忠実に再現したスウィートルームでの一夜。
じゃあ俺は路上で客を待ってる娼婦役?と聞けば、じゃあ俺は高所恐怖症の社長だ、と笑う。だから樽の中の葡萄を踏む様に絨毯を踏んで、その腕の中へ飛び込んだ。
必要以上の無邪気さにはきっと、彼も何か勘付いていた。元から酷く敏感な人だから、尚更。
けれどそれを言及などしない。そんな所がとても好きだった。
最高級のシャンパン味に口付けて。
これが最後のフレンチキス。
あの時と同じベッドで一人迎えた朝は、開けっ放しのカーテンの向こうから柔らかい日差しを運んで来る。
三年前の夢を見た。それは記憶そのものを掬い取る様に忠実な夢で、だからこそ自分の脳内に、当時の記憶があまりにも鮮明に残っているのだと思い知らされた。
寝惚けたままシーツの波から抜け出して、寝室と居間とを繋ぐドアを開く。すると、昨夜の内にオーダーしておいた朝食がテーブルの上で自己主張しているのに気付いて、時間を確かめれば午前11時。
いつもなら愛猫が食事の用意を訴えて起床を促すのに、それが無ければこうして昼近くまで寝てしまう自分は、いつまで経っても変わらないと思った。
皺の寄ったシーツの中で目を覚ませば、いつもリビングからは美味しそうな匂いがしていた。
自分の好きな和食だったり、彼の好きな洋食だったり。それは様々でも必ず、腹を減らして目を覚ます自分のために、彼は何時に寝ようが自分より早く起床し、そして朝食を作った。
一度その話を手塚にした事があった。「愛されているな」と、見た事もない様な穏やかな表情で言われて、酷く照れくさくてしょうがなくなった記憶がある。
愛と恋の区別なんて付けようが無いと思うからこそ、あの時はその言葉の意味を深く考える事を拒んだけれど。
昨夜、ベッドの中で考えた事。
手塚の言葉はそのまま自分自身が考えていた事でもあって、ほんの十数分自分を見ただけでピタリと言い当てられるほどに顔に出ているのなら、それはやはり図星なのだろうと。
送り主の分からないメールを保護している事も、休暇を利用して日本へ帰国した事も、その際の宿泊先にこの部屋を選んだ事も。
それは全て、自分が彼を求めているのだという事の証だ。今更、否定する事も無い。
甘えと、柵と、あの時言えなかった言葉と。全てをズルズルと引き摺って。
椅子に座って、卵焼きへと箸を伸ばした。一流ホテルの一流シェフが作る一流和風朝食セット。
卵焼きからは程よい塩味がした。
彼の作る卵焼きはいつも、ほんのりと甘かった。甘党の自分の趣向を考慮しての味だった。
半ば掻き込む様にして朝食を終え、シャワーを浴びて着替えを済ませた。
見るとも無しに見た姿見に映る自分は、板に付いたポーカーフェイスをも身に纏っている。
その鏡を叩き割ってしまいたいほどの嫌悪感が沸くけれど、自分の過ごして来た三年間を完全否定する様で、それこそ嫌気がさす。
無理矢理目線を剥がして、唯一の荷物であるテニスバックから、ラケットとボールとタオル以外の物を取り出した。
バックを背負い、目深に被った帽子で自身の顔を隠す様に、観音開きのドアを開ける。
あの頃もこうして、何かから逃げたいと思った時、自分はラケットを握り、ボールを叩き付けた。
その腕を掴んで引き寄せてくれる人間が居た幸福を、今更ながらに噛み締めて。
背後でドアの閉まる音がして、リョーマは一歩を踏み出した。
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(2006/07/06)
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