一定のスピードを繰り返しながら、時速100キロのテニスボールが発射されるマシン。その真向かいでラケットを構え、一身に振り続ける男が一人。
完璧なリターンのインパクト音を響かせながら、そのボールは真向かいに設置されている緑色のネットへと叩き付けられて行く。
マシンからの発射音、インパクト音、そしてネットへと当たる瞬間の音。それはさながら交響楽団が奏でる音楽の様に、耳に心地良く響いた。そのリズムには一寸の狂いも無い。計算し尽くされたバランス。
それを乱したのは100球を発射し終えたマシンで、けれどその球数をきっちりと数えていた男は、それこそ交響楽団の指揮者がタクトを下ろすかの様にラケットを下ろした。
乱れた前髪をかき上げ、男は息を吐く。滲んだ汗をタオルで拭って、手近に置いてあった水分補給用のボトルを手に取った。
「跡部」
リターン練習用マシンの専用コートの向こうから響いた声に、男が振り返る。
その視線の先に見慣れた知人を認めて、その眉を片方だけ上げた。
跡部景吾、20歳。
彼は何事か言おうとして、けれど開きかけた口を閉じた。
「少し、時間はあるか」
そのセリフの主の表情から、何やら思う事があったのだろう。
跡部は壁にかかったデジタル時計を見上げ、頷いた。
「珍しいな、お前からのお誘いなんてよ」
オーダーしたストレートティーに一口付け、跡部は目前の男を見据える。
男……手塚は、同じくオーダーしたコーヒーには目もくれず、ただただ変わらない表情を跡部へと向けていた。
「何だよ真顔で。……ってお前はいつでもそうだったか」
「俺の話はどうでも良い」
「なら早く本題に入れ。こう見えても忙しい身だ」
「分かった」
手塚は相変わらず微動だにしない表情のまま、薄い唇を開いた。
「まず、返答は分かっているが、質問がある」
「……何だって?」
「聞くのは無駄だと分かっているが、一応聞いておく、という事だ」
「何がだ」
「連絡は、あったのか」
跡部は、何を言ってるんだコイツ?という表情を隠しもせず、その秀眉を寄せる。
手塚はそれで尚の事確信を得たのか、やはりな、と呟いて、溜息にも聞こえる息を吐いた。
「素直に連絡を入れる様な奴でないのは分かってはいたが」
「おい、何の話だ?」
「帰国しているんだ」
跡部は少しのタイムラグを置いた後、一瞬目を見開いた。
帰国。その単語に当て嵌まる人物は、跡部と手塚の共通の知人としては、今の所一人しか居ない。
「……いつだ」
「昨日だ」
「何で知ってる」
「直接会って、話をしたからな」
「何でお前が?」
「電話があったからだ」
どうして……と呟きかけた口を半ば無理矢理の様に閉じて、跡部は舌打をする。
苛立ちは自分へ。明らかな同様と焦燥を、こんなにも素直に表情と態度へと出してしまった事に、行き場の無い気持ちを押さえ込んで今一度グラスを掴んだ。
今でもこんなに、自分の中の彼の存在は、鮮明で。
「……で?」
やけに苦味を増したストレートティーが喉を通った感覚に、一瞬視線を歪ませてから、跡部が再度口を開く。
店内の冷房は程良く、聞こえてくるクラシックのBGMも跡部の好むものだ。
けれど冷え始めた体から滲み出る冷や汗の様なものを、自覚せずには居られない。
「メールを、送ったんだろう」
「……」
「勘違いするな、本人に何かを聞いた訳ではない。だが、聞かずとも自ずと分かる事だ」
「……そうかよ」
「越前も、分かっていた様だ」
越前、と。
その名を直に聞けば、尚更体が強張った。
「別に、祝いのメールくらいするだろ。俺達の知り合いの中じゃ、一番の出世だからな」
グラスをテーブルへと戻し、さも、何でも無い様に言い放つ。
声は震えなかったし、さすがにそこまで滑稽な自分には成り下がりたくない。
本心がどうであっても。
「……そうだな」
そう言ったきり、手塚は黙った。冷めかけたコーヒーにやっと手を伸ばし、一口飲んでソーサへと戻す。
その表情から読み取れるものは少なく、跡部自身も何かを期待していた訳ではない。
「……もう良いか。この後予定が入ってるんでな」
居心地の悪い空間を裂く様に言って、跡部が立ち上がる。
ラケットバックを背負い上げ、伝票を手に取るがその手は手塚に制される。
「ここは、いい」
いつもなら誰かに奢らせる様な事はプライドが反すると言ってしない跡部だが、今日は大人しくその手を引いた。
手塚の真意は、分かっている。自分とリョーマの当時の関係を知っていて、その上で今でもそれなりの付き合いがある相手というのは、ごく限られている。手塚はその内の一人だ。
ならば、言いたい事など例えその顔に出ていなかったとしても、分からないはずも無い。
心配されているのか、と。
その危惧さえもが拍車をかけるほど、自分が今、取り乱している事を知る。
これ以上この空間に居ると、どんどんボロを出しそうで。跡部は手塚に背を向けた。
けれどその次の瞬間、飛んで来た言葉に今一度足を止める。
「お前の家の系列ホテルだろう、あれは。……酷く贅沢なスウィートルームだ」
思い当たったのは、あの夏の日に、最後の夜を過ごした部屋。
何も言わずに腕から抜け出した彼の背中を、眠っているふりをして見送った部屋。
最後に頬に触れた唇の感触が、あまりにリアルに思い出されて。
「……お節介な野郎だぜ」
呟いて、今度こそ振り返らずに喫茶店を後にした。
愛車を駐車してある駐車場へと向かう足取りにどこか現実感が無く、わざと踏み締める様にして歩いた。
忘れてなど居なかった。思い出さない様にしていただけだ。
思い出にしてしまえ、と何度も言い聞かせた。夢を見る度に。
世界大会が開かれる度に映し出されるリアルタイムの彼の姿を、まるで枯渇する様な想いを抱えながら、その瞳に映していたとしても。
愛車のロックを解除し、運転席に乗り込んだ。
淡いフローラルが香って、少しリクライニングの傾いた助手席へと視線が飛ぶ。
昨夜そこに乗せた女は、こんなに甘ったるい香りをさせていただろうか。
彼からはいつも、爽やかな太陽の香りがしていた。
それが彼自身から発せられる香りなのだと、知り過ぎるほどに知っている。
跡部は今一度舌打をして、エンジンをかけた。
かけたかった言葉など幾らでもあった。
引き寄せて、腕の中、言いたいセリフがあった。
話し足りなかった。抱き締め足りなかった。もっともっと自分の本音を、その心を割り開く様にして見せる事が出来たなら。
……雁字搦めにして、縛り付けて、何処にも行かない様に閉じ込めてしまえる勇気があったのなら。
その見えない翼をもぎ取ってでも。
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(2006/07/06)
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