リョーマがその部屋に足を踏み入れたのは、18年の人生の中で二度目だった。
大理石の床にひかれた毛足の短い絨毯、部屋の真ん中に位置するイタリア製牛革ソファ、いたる所に飾られたベルベットの薔薇。
それはまるでタイムスリップを促す様に、過ぎ去った過去を思い起こさせる。
観音開きの扉の向こうは、そのホテルの最上階、スペシャルスウィートルーム。各国のVIP御用達のその部屋は、一泊するのに桁数を疑う様な宿泊料金を取る。だからというのもあるだろうが、置いてある調度品の全てがとんでもない高級品だ。
リョーマが一度目にこの部屋を訪れたのは、今から三年前の夏の終わりだった。テラスから続く階段を下りれば専用の露天ジャグジーがあり、それに嬉々として入った記憶は、今も鮮明に残っている。
確かその日はシーサイドパークで花火大会があって、湯船に浸かりながらそれを見下ろしたものだ。花火を見下ろすなどと、とても貴重な体験をしている、と笑いながら。
彼と一緒に。
「越前様、ディナーの方はいかが致しましょう」
「あぁ……適当にルームサービス頼むんで」
「左様で御座いますか。それでは、何かありましたらお気軽にお申し付け下さいませ」
「どうも」
うやうやしく頭を下げるのは、このホテルの支配人。
スウィートの客にはわざわざ支配人が挨拶に来るらしい。三年前がどうだったかなど、そんな事は覚えていなかった。
「それでは失礼致します」
支配人の背中を見送って扉が完全に閉じるのを確認すると、リョーマは持っていたテニスバックをその場に落とし、飛び込む様にしてソファへと体を投げ出した。
何をしているのだろう。本気で自嘲した。
全米オープンを終えて、久し振りに長期の休暇が取れた。勿論トレーナーとは、休暇中もラケットを握る事は忘れない事を約束していたし、リョーマ自身、テニスは酸素の様なものであるのだから離れる事などしない。だからわざわざ遠く離れた日本までも、ラケットバックを背負って来ているのだ。
この休暇はゆっくりと過ごすつもりだった。アメリカに居ればメディアがどこに行っても煩いので、出来ればあまり自分が知られていない国で。
けれど結局自分は、第二の故郷である、寧ろアメリカよりも煩い事になりそうなこの日本を、選んでいた。
しかも予約したのが、このホテルのこの部屋で。
「……賞金、どれくらいあったんだっけ」
資産管理は全て人任せなので、一試合で幾らになるのかなど彼は知らないし興味も無い。ただ好きなテニスが思いっきり出来る、それだけで良かった。そのためにはプロであろうがアマチュアであろうが関係無かったのだ。たまたまプロは、テニスをしていれば食べて行けた。それだけだった。
使い過ぎるな、と念を押されて渡されているクレジットカードは、キラキラと輝くシルバーをしていた。つまりは、それくらいの稼ぎはあるという事になるらしい。
元々物欲の殆ど無いリョーマだから、そのカードは過去、主に小銭が切れた時のコンビニや、良くて壊れた電化製品の買い替え時に使われただけだ。だからこそ来月親元へと届くだろう請求書の額がどうなっているのか。そしてそれを見た母が腰を抜かすのではないだろうか。そんな事を心配した。
そんな莫大な金を使って宿泊するこのホテルで、自分は何をしようとしているのだろう。
思い出を振り返るためならば、その金を全額寄付でもした方がよっぽど良いだろう。
けれど気がつけば、インターネットで調べたこのホテルへと、電話をかけていたのだから仕方が無い。
リョーマは目にサラリと落ちる髪を掻きあげ、勢いをつけて身を起こした。
うじうじとするのは自分流ではない。それに別に、リョーマには悩んだりする必要は無いはずだった。
ただ、例えば久し振りに会った友達の様に、「元気?最近どうしてんの?」とでも声をかければ良いと思う。実際、彼とは一時期の間友人とも呼べる関係だったので、それが可笑しいとは思わない。ただ、友人であった時間より別の関係の方が長かっただけで。
ズボンのポケットから携帯を取り出す。メールボックスの中程に残された例のメールを、今一度開いた。
いつの間にか、「おめでとう」という言葉に何も感じなくなっている。
言われ慣れてしまった、などと言えば嫌味に聞こえるかもしれないが、リョーマにとってテニスをする事、試合を勝ち進む事は、誰よりも強くなりたいという情熱に他ならない。それに偶々賛辞が付いて回るだけで、けしてそれを欲していた事などただの一度も無かった。
だからこそ、人から貰う言葉に、感じるものがどんどん薄くなって行く。そしてそのピークが来たのが、先日の全米オープンだった。文字通り全身で浴びた賛辞と拍手。まるで、テニスをしていない越前リョーマは否定されている様で、吐き気にも似た嫌悪感と共に居心地の悪い浮遊感を感じたあの日。
そして気付いたのは、テニスへの情熱すら失いかけている自分だった。
笑顔を貼り付ける事に慣れた。大人だらけの世界で一人生き抜くには、テニスが強いだけではいけなかった。時には、その強ささえ仇になる。それが、社会だった。
だからきっと、笑えていた。あの日、決勝戦を制した後、大勢の報道陣の前で。実際後で観たその時の中継での自分は、笑っていた、ちゃんと。笑えていた、ちゃんと。
史上初の日本人、そして最年少記録の塗り変え。リョーマの功績は全世界へと届けられたのだ。
上っ面の笑顔と共に。
そしてそんな日の夜だった。そのメールを受け取ったのは。
リョーマは携帯を耳に当てた。その小さな電子機器の中で、繰り返し繰り返し、呼び出し音が鳴っている。
日本への旅券を取り、このホテルを予約したのは、その次の日の夜だった。
一日部屋に閉じこもったまま考えて、結論を出したのだ。
それはどこか、現実逃避にも似た想い。寄りかかる場所が欲しいと、そう思ったのは、何年ぶりだったのだろう。
きっと、一度その温かい体温を失って、忘れていた想いだった。
受話器の向こうで、プツ、と音が鳴る。電波が繋がった。
そして聴こえて来るのは、落ち着いた低音。何も変わっていない。どこか安心して、リョーマはひっそりと唇に笑みを刻む。
「もしもし、俺、越前リョーマっす。……手塚先輩」
「極めて……、財の無駄遣いだな」
部屋に入った途端のセリフに、リョーマは思わず吹き出した。変わっていないのは、その性格も同じ様だ。
「いいんスよ。久し振りの休暇だし、自分へのごほーび」
「……そうか」
それ以上は何も言うまいと思ったのか、それとも何も言えなかったのだろうか。昔から人より抜きん出て大人びていたこの二つ上の先輩は、その容姿や性格通りに大人びた思考回路を持っていた。
テニスは、メンタル面をとても重要視しなければならないスポーツだ。その点この人は、それが格段に上手かった。そして努力を一切怠らなかったが故に、中学高校と、その名を轟かせ続けたのだ。
案内して来た支配人が出て行った後、手塚は促されるまま、無言でソファに腰を下ろした。部屋の冷蔵庫から緑茶のボトルを出して来たリョーマは、それとグラスをローテーブルに置く。
セルフサービス。それとも開けようか。そんな視線を飛ばせば、手で制される。そう来ると思ったからこそ、敢えて注がなかったのだけれど。
「全米オープン。テレビで観させて貰った」
「あぁ、そう」
「お前はそうして、どんどん上へ登って行く。その姿勢は昔から変わらないな」
「……そうでもないけど」
手塚は一瞬だけ怪訝な顔をして、そして表情を元に戻した。
その、無表情と言うよりは気難し気な表情に対峙すれば、本当にタイムスリップしたかの様だった。カラン、と自分の掌中にあったグラスの中で氷が音を立てた。現実への呼び声の様だった。
「先輩は、今日は学校?」
「お前の電話を受けた時、丁度講義が終わった所だった」
「何だ。じゃあ何で一人なんスか?」
「お前は何も、昔の仲間を集めろなどとは言わなかっただろう」
「てっきり、誰か来ると思ってたんだけど」
「けれど」
手塚は言葉を切った。話し声が止むと、広すぎるスウィートには沈黙しか残らない。
無性に、その沈黙の居心地は悪かった。
「お前は、世間話やテニスの話を望んでいた訳ではないだろう」
あぁ、相変わらず見抜かれている。
自分はそこまで単純なつもりはないのだが、どうやら表情が顔に直接出るらしく、昔からよく人に言い当てられたものだった。
けれどそれとは別に、手塚はリョーマの心根を理解しているらしい。それは彼が、リョーマのテニスを変えた切欠の張本人だったからかもしれない。あの時のリョーマに本当に必要な事を教え、必要な材料を与えた男。それが、手塚だった。
「……久し振りの再会で、本題だけっていうのも味気無いじゃん」
「なら、もう十分じゃないのか」
「急ぎの用事でもあんの?」
「いや。……ただ、今のお前は見ていられない」
次の言葉が、リョーマには紡げなかった。リョーマの帰国の理由だけでなくもしかしたら手塚は、あの貼り付けた笑顔さえも、気付いていたのかもしれない。そしてその切欠を与えるために、今日、わざわざ出向いたのかもしれない。
あの、中一の春の様に。
「アドレスを教えたのは、俺だ」
問いを投げかける前に出された答え。けれどそれは半ば予想出来ていた。それが分かっていたからこそ、今日手塚へと電話をかけたのだから。
リョーマはそう思いながらも、ふと、拳を作っている左手に気付く。ズボンの上で握り締めた掌で、汗がじんわりと滲んだ。
「けれど教えたのは、お前が携帯を変えて……暫くした頃だ。二年は経ったんじゃないか」
「そんなに、前」
「あぁ。どうやらその間、一度もメールを送らなかった様だな、あいつは」
「……来ても、返事返したかどうかなんて分からない」
「それは、あいつにも分かっていただろう。だから送らなかった、とも考えられる」
きちんとした形で、終わらせた恋愛では無かった。自分は半ば逃げる様にして、アメリカへと渡った。後悔はしていない、互いにとって最良の道だった。けれどそう理解出来るのは、頭の、それこそ上っ面だけだった。
それはどこか、自分への甘え。一人、社会へと、世界へと飛び込んだ身は、何度も打ちのめされてボロボロになる。けれどそれを乗り越えるために、欲しかったものかもしれない。
自分を、もしかするとどこかで見て、あの頃を思い出してくれているかもしれないから。優しい腕をどうしても忘れられない体が、その甘い夢に酔う。
夢の中で良い、縋り付ける場所。きっと現実では、隣に居ても「助けて」なんて言えないから。
「……で、今、どうしてんの」
「大学に通っている。偶にテニススクールで会うが、特に変わった様子は無い」
「日本に居るんだ」
「イギリスに一年。一昨年から留学していて、去年の今頃に帰って来たらしい」
「本人に?」
「そうだ。本人に聞いた」
イギリス。そこは彼の生まれ故郷だ。
彼の話す英語に独特の英国訛りを感じ、尋ねた時。その出自を聞いて、ロンドンの町並みに溶け込む日本人離れした容姿が、あまりに容易く想像出来た。
彼の父親が経営する大規模な株式会社は、世界各国に関連企業を持っている。中学生にして既に帝王学を学んでいた彼が、語学留学をするのは当たり前だった。もっとも、彼の英語は完璧なキングズイングリッシュで、今更英語圏に留学が必要だったかどうかは定かではないが。
「越前」
「何スか」
「こうしている時間が、勿体無いとは思わないのか?」
手塚は、至極真剣だった。相変わらずその表情は変わらないが、その真摯な瞳に嘘や冗談など無い。
「……別に俺は、あの人に会いに来た訳じゃない」
「けれどそれが、今一番、お前の抱えている悩みの解決法に近いんじゃないのか」
「そんな事、分かんないッスよ」
「傍目から見ていれば、誰でも分かる」
そう言われてしまえば、返す言葉が無かった。何せ相手は手塚、それこそ嘘や冗談が通用する相手では無い。
手塚はジャケットの内ポケットから携帯を取り出し、幾つかのボタンを押した後、元の場所へと携帯を仕舞った。それと当時に鳴り出したのは、リョーマの携帯。
「自分で決めれば良い。それは俺が干渉する事じゃない」
「……」
「ただ俺は、友人であるあいつも、後輩であるお前も、幸福であるならそちらの方が望ましいと思うだけだ」
「そうッスか」
「あぁ。……では、そろそろ失礼するとしよう」
手塚は立ち上がり、そのままリョーマを見下ろした。随分と身長が伸びたせいで近付いていた身長差が、腰掛けたままの今はまた昔に戻った様だった。
見覚えのある情景。五年前の、高架下テニスコートのリフレイン。
手塚は背中を向け、一直線に出入り口であるドアへと向かった。
リョーマは、伏せたままの視線を上げられなかった。あの時の様に、キツイ眼差しで睨み返す事が出来なかった。
「手塚部長」
懐かしい呼び方で呼んで、手塚の足が止まったのを気配で知る。
「あの人、高校入ってすぐに、婚約者が決まったんだよ」
手塚の視線が一瞬だけ、自分に向いたのがリョーマにも分かった。けれどそれを受け止める事はしなかった。まるで、今吐いてしまった弱音の要素を、自分でも認めたくないとでも言う様に。
「……あいつは、独身だ」
その言葉を残して、手塚は今度こそ、部屋から去った。
静かになった、また、一人の空間に沈黙が生まれる。昔はこれが好きだったのに、いつからだろうか、無音の状態が少し怖くなってしまったのは。
だからこそ飼い始めた愛猫に、彼の姿を投影しながら。
お互いの未来のために、お互いを切った。
それはきっと最良の道なのだと、今でも言い切れるのに、何故。
どちらも軋んだ歯車の様に、上手く回る事が出来ない。
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(2006/05/18)
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