単位調節で履修せざるを得なかった西洋文化の講義は、意味を成さない言葉の羅列をだたひたすらノートに書き写して終わる。
眠気を誘う独特の語り口調に陥落した学生達の頭を横目に見ながら、右手に握ったシャープペンは淀みなく動き続けた。著名な作家の名前があがり、誰もが知る名作が紹介される。今更説明など必要ないだろうに、ただ語りたいのだろう大学教授の淀んだ瞳を見ているのが癪で、ただノートをとる事に専念した。
窓の外は今日も快晴で、貫ける様な青空が広がっていた。強風を送り込む冷房の音が広い講堂にさえ響いていて、外気温の暑さが伺える。
ふいに目に止まったのは、その青を一直線に分断する白線。未だ鮮やかなその先を追えば、小さく見える鉄の塊が少しずつ動いているのが見えた。

―――隠れる様に、目を逸らした。





その言葉を告げた己の声が、シンとした室内に響いた。それ程大きな声を出した訳ではないのに、どこか余韻を持って渦を巻く様に空気に混じるのは気のせいか。
困惑、混乱。戸惑っているのは、それを発した自分自身で。どこか吐き捨てる様な響きは、本当なら自分に向いている感情。
捨ててしまいたいと思った。彼への恋情も、過去も、出来るなら記憶さえ。
忘却が逃げだと言うのなら、どれだけ後ろ指を指され様とも。
これ以上の苦しみが、この世にあると言うのだろうかと。……そう思えるほどに、胸が痛い。

カタンと、軽い音がした。彼の手にあったボトルが、カウンターへと置かれた音。
その視線は俯いていて。けれどその横顔には、表情が無い。
何を思っているのか。そこから読み取るのは難しかった。

「……本当なら」

ふいに聞こえたのは彼の声で、宙をさ迷わせたままの視線を上げる。
相変わらず俯いたまま、けれど何かの意志を持った瞳が、大理石のカウンターを見つめていた。

「あの日、俺が。……ちゃんと言ってれば、俺も、アンタも。こんな想いはしなくて済んだ」

あの日。その背を見送ったあの日。
別離は暗黙の内に知っていた。ずっと一緒に、などと綺麗事の夢物語を並べられないほどには、出会った時から子どもらしさに欠けていたから。
触れ合う事は慰めで。孤独でいるのが怖いから、手を繋いだ。
愛情は先なのか、それとも後なのか。今となっては、そんな事さえ曖昧で。
分かり合えたのは、どこか似ていたから。

「でも……言えなかったんだよ」

言葉尻に混ざった苦味が、ズンと胸を打つ。
カウンターに置かれたボトルはその手の中で、少し、ひしゃげている。
―――震えだしたその背を、抱きたいと思った。

「逃げたから、俺が。未練とか、後悔とか。残したくないのに、でも―――」

続いた言葉に、ズボンの上で拳を握った。
今すぐ駆け寄って抱き締めてやりたい。そんなに悲しい言葉を言わせている自分が憎い。泣き出しそうな、けれど泣けないだろう彼のために、この腕を、この胸を差し出して。そして。
……慰める様に何度も口付けられたら。

「……ごめん」

小さな謝罪は、何へ向けられたものだろう。
曖昧なまま日本を離れた事。突然の帰国。それとも。―――この腕を、求めた事か。

何か言えば、零れ落ちてしまいそうだ。
自分達の選んだ道を見据えれば、昨夜の事……今こうしている事すら、望ましくはない。
出会いと別れを繰り返すのが生きる事ならば、その内の一つとして。一生懸命に繋いだ手を離さなければならない瞬間を、知ってしまったと。
……割り切れていたのなら、どれほど楽だろう。

リョーマが一歩を踏み出した事に気付いて、跡部は顔を上げる。
ヒタヒタと鳴る裸足の足の下、大理石は白々と輝いていて。冷たいだろうと、思った。
ソファに座ったままの跡部を見下ろして。リョーマは、笑った。
どこかで見た顔だった。唇をぎゅっと引き締め、目を細める。―――泣きたい時の、笑顔。

「もう、アンタには会えない。俺は俺のために、ここには居られないから、だから」

あの日、言われるべきだった言葉。幼いままの彼が一瞬浮かんで、消えた。
静かに差し出された手を掴んで、緩く引いた。肩口に額が当たって、そのままそっと抱き締める。
崩れ落ちる様にその胸に収まった体は、けれど強張っていた。小さく震えている様で、腕に力を込める。

涙の理由が自分なら。
―――慰める権利など、とっくに無かった。

頬に触れていた髪がゆっくりと滑り、腕に抱いたままの彼がそっと体を起こす。
瞳が至近距離でかち合った。
きっと押し殺しているのだろう涙の膜を探してしまうのは、未練以外の何物でもない。
彼の帰国の理由が自分であったなら、と。自惚れにも似た想いを抱きながら昨夜、エレベーターに乗ったのを思い出す。
そしてそれは全て……自分の事なのだと。
未練を残しているのも、未だ想っていて欲しいなどと願うのも。ただただ、自分が彼に残した、未練と願いに他ならない。

それでも彼を苦しめる。
この腕が……全てを断ち切らせないから。

―――謝らなければならないのは、自分の方だ。

ゆっくりと瞬きをした瞳が、薄く閉じられた。
―――さようならの言葉は、言わないまま。

小さく触れ合わせた唇は冷たかった。
一瞬の口付けが、言葉の代わり。

体を離して、傍らに昨夜から放置されていた荷物を掴む。電源の入ったままの小型ノートパソコンを押し込んで、立ち上がった。
リョーマの視線は逸らされていた。真っ白なままの頬だけが少し見えた。

―――叶うなら、もう二度とこんな想いは。

最後に向けられていた背中が纏うのは、あの日と同じ白いシャツ。
どうか、振り向かないまま。

早足で部屋を横切り、観音開きの扉を開けた。微かな音に紛れて最後に振り返れば、立ち尽くしたままの白が。
……拒絶ではなく、悲哀を背負った白から、視線を剥がす。

音を立てて閉まったドア。
たった一枚のドアが隔てる距離は、国を跨いで、心を跨いで、そして……愛しさを跨いで。

エレベーターまでの廊下を歩く。
一歩一歩に感覚がないのは、気のせいなのだと。どこかぼやけた頭で、考えた。
頬に何かを感じた。耳の奥がキンと鳴って、その正体に気付く。





逃げたから、俺が。未練とか、後悔とか。残したくないのに、でも。
―――アンタの中に、俺を残して行きたかったんだ。





気付いてしまった涙を指で拭って。
最後の虚勢。

痣となって、きっと消えない言葉。








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(2006/11/07)

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