離陸する瞬間の独特の浮遊感には、未だ慣れない。
耳がキンとして次第に落ち着く頃になると、先ほどまで立っていたその土地は酷く遠い所にあった。
備え付けのヘッドフォンを耳に当てて、適当にチャンネルを弄る。何でも良い、周りの音さえ消えてくれれば。
サングラスと付け替えたアイマスクの裏側で、ゆったりと瞳を閉じる。
休暇はまだ残っている。とは言っても帰国さえすれば、いつも通りテニス漬けの生活が待っているだろう。帰国の知らせを入れた時のトレーナーの喜び様は、思わず笑ってしまうほどだった。
結局自分からテニスは切り離せない。どんなに足掻いても、もがいても。
まるで息をする様に自然にラケットを振って来たから、もしかすると今更、止めようと思って出来るものでもないのかもしれなかった。
……決意なんて、案外簡単にぐらつくものじゃないか。
アイマスクの下の瞳をきつく瞑って、溜息を吐く。
何のための帰省だったのか。
メールの真相。過去との決着。……違う。
これを認めてしまう事がどういう事なのか、分からない自分じゃない。そう、信じたい。
この身から離す事のない指輪が、当たる素肌に少し冷たくて。
背後でドアの閉まる音がした。
上質な絨毯の敷かれた廊下には、足音なんて響かない。だから……去って行く音を、聞く事も無い。
その腕に抱かれた体に、肩に。余韻が残っている様で小さく頭を振る。
忘れる。早く。今すぐ。
……呪文の様に唱えても、消えてはくれないだろう。
大きく息を吸って、吐いて。肺の奥に溜まったもの……柵、苛立ち、後悔。全部全部、吐き出す様に。
溜まった涙を零さない様に、深く。
暫く繰り返していると、だんだん凪いで行くのが分かった。もう大丈夫。震えも無い。
そのままソファに座り、体を投げ出した。乾き切っていない髪が頭の下で引っ張られるけれど、どうでも良い。
天井を見上げる。床も、壁も、そしてそこも。一点の曇りも無い純白で、酷く自分が汚れている気がする。
目を閉じた。それでも完全なる闇は訪れなくて、腕を交差させて瞼の上を覆う。
―――このまま闇に溶け込んでしまえたら楽だろうか。本気で考える自分が馬鹿らしかった。
切欠を作ったのはどちらだっただろう。何故共に居る事が自然になったのかさえ、よく覚えてはいない。
ただ、居心地が良かった。彼が生み出す空気が、空間が。
呼吸が上手く出来たのだ、傍に居ると。
偉そうな態度を取って、何もかもを持っている様な顔をして。……そのくせ、酷く不器用で。
偶に見せる顔が酷く悲しくて、そう……初めてキスをしたのは、自分からではなかったか。
理由は見付からなかった。彼も、何も尋ねなかったと思う。
ただその行為に理由を見つけられた時、この気持ちが一つの形を結んだというだけで。
『ねぇ跡部サン』
『何だ』
『よく分からないんだけど……。アンタと居るのは、悪くないね』
『……そうか』
そんな会話を交わしたのは、夏の終わり。
俺達を結んだのは、気持ちじゃない。
ただただ欲した、“安息”という名の居場所。
寄りかかり合って。与え合い、求め合う。……依存という名の、安息。
だから。
欲したのだと。
離れる事で気付いたこの心の弱点を、真正面から受け止める勇気など無かったから。
埋めて。埋めて欲しい。
この心の弱点を。弱さを、もう、見たくなんてない。
―――俺は俺が選んだ道に立っているというのに。
テラスに続く窓を開けた。
今日も良い天気だ。透明度の高い青空は、自分の抱えた痛みなど小さいもんだと笑い飛ばしている様だ。
唇に笑みを刻む。息が漏れて、次第に声になった。
笑う。笑え。―――こんな俺を。
吹き飛ばしてしまえば良い。そして忘れてしまえば良い。
昨夜の事は夢。……都合の良い、夢だと。
けれど。
テラスに響く笑い声は、酷く乾いている様に聞こえた。
機内アナウンスに目を覚ます。食事も、飲み物も、全てのサービスをキャンセルして、ただただ瞳を閉じ続けた。
眠っている間は考えずに済む。そう思ったのに、夢でまでまだ縋るなんて……いい加減にしろ、自分。
見る夢は全て現実。過去の映像。
忘れろと念じ続けるが故か。張り付いて離れない記憶が、グルグルと回っている。
夢を見る。眠れない。……体がダルい。
水を一杯だけ頼んで、喉を潤した。
モニターに表示されている現在地は、目的地にほど遠くはなく。空域で言えば、既にアメリカに入っていた。
紙コップを持ち上げて最後の一口を飲み干した。
喉を通るこの水の様に、冷たい水に記憶を浸せたなら。忘れてしまいたいと思った事が、都合良く消えてくれるのだろうか。
ふと、左手首に違和感を覚える。
見つけたのは赤い痣。これは……口付けの跡か。
途端にぶり返すのはあの夜の記憶。これを付けた彼の……唇の、熱さ。
リストバンドを引き下ろす。心臓が大きく跳ねて、思わず俯いた。
消えて欲しく無いと願った。この体に未だ残る、無数の跡が。
忘れてしまいたいと願った。この心に未だ残る、彼の記憶が。
矛盾している様で、どちらも同じ。
―――傍に居たい。居て欲しい。……ただ、その願いが。
引き下ろしたリストバンドを、少し上げる。薄っすらと、輪郭をぼやけさせたそれは、明日にでも消えてしまうだろう。
ゆっくりと唇を触れさせた。吸い上げて、離せば。上塗りに咲く、赤い赤い花。
消えて欲しく無いと願った。
忘れてしまいたいと願った。
どちらも決して叶わない願い。
その優しさが怖かった。
腕の強さが、口付けが、与えられるもの全て。怖かった。
これ以上俺に微笑まないで。傍に居ないで。……触れないで。
誰か他の人のものになるのならば、いっそ。そう考えたら。
―――嫉妬で気が狂いそうだった。
あの頃の俺が、叫ぶ。
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(2007/03/07)
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