閉じられたドアの向こうからは衣擦れなど聞こえるはずもないが、リョーマが風呂場へと向かった事は気配で分かった。
怒るだろうか、と思った。彼の体に浮かび上がっているあの紅を思えば。
同じくバスルームへと続くドアをちらりと見やりながら、跡部は少しだけ眉を顰めた。

これほどまでに自分を情けなく思った事はない。
いつだって冷静でいる様に心がけていたつもりで、勿論そうして来た。
理性が本能に屈する瞬間というのは、それを理性が容認した瞬間のみなのだと……そう生きて来た。
けれど、覚えが無い訳ではなかった。

あの肌に初めて触れた夜の、衝動を忘れる事など。

酷く緊張していたのを覚えている。
上擦り逸る気持ちと裏腹に、恐怖にも似た感情を抱いて、どうにかなりそうだった。
夢にまで見た、と言えばきっと笑うだろうから言わなかったけれど、チラついて離れない空想の中の彼を思って、唇を噛んだ夜もあった。
それが、目の前にあるのだと思えば。……それこそ妄想か何かなのでは、と。非現実的な考えさえ頭を過ぎって。
あの強い視線が涙で歪み、その中に自分がいる。
衝動は止まらない。

まるであの……初めての夜のリフレイン。
互いに強張った体も、確かめる様に何度も触れる唇も、指も。変わったのはシルエットと、抱いたままの迷いだ。

少なくともあの頃は、触れ合う事が、互いだけを見ていられる時間だった。

『ねぇ』

三年以上前の、幼い彼が蘇る。

『明日練習試合だって言ったじゃん。……どーしてくれんの』
『良い身分だよね、アンタ。俺がアンタに甘過ぎんのかな』
『体力あり過ぎなんだけど。もっと他に活用しないと部員が泣くよ』

他愛も無い会話が、日常化した存在が、無くなった瞬間の空虚を。
……取り戻そうと足掻いても、過ぎ去った時間は戻らないという事を、今更ながらにまざまざと知らされて。
持って行かれたと思っていた、彼の中の自分の姿は。彼を抱いた所で戻って来るものでもなかった。返して欲しいなどとは思わないし、それによって何かが埋まる訳でもない。
彼が帰国している理由も、問う事はしていない。元々はそれを聞きたくて。……それを言い訳にして、自分はこの場にやって来たのだけれど。
要するに、同じなのだろう。雁字搦めなのも、抜け出せないのも……諦められないのも。

『景吾』

名を呼ぶ声は、きっと忘れられない。





「……お先」

生乾きの髪をフェイスタオルで拭いながらリョーマが姿を現したのは、十数分が経過した頃。跡部は視線を上げてそちらを見やると、また少し俯いた。
その膝の上では小型のノートパソコンが液晶画面を光らせて自己主張していた。
迷い無くキイを叩く長い指が、いつだったか同じ様に叩いていた鍵盤、メロディーを思い出して、残像を振り払う様にリョーマは視線を逸らす。
気不味さを紛らしたくて備え付けの冷蔵庫を開けば、先日封を開けないままそこへ戻された緑茶のボトルがあって、けれどそれを呷る気分ではなくて、奥に横たわるミネラルウォーターを引っ張り出した。
『幸福であるならそちらの方が望ましいと思うだけだ』……と。そう言った声が思い出されて、苛立ちを覚える。
どちらにしろ……幸せなんて、望むべきじゃない。
何を幸せとするのか。その選択を、間違えてしまったのではないか。自分も、彼も。

一つ呼吸をして、意を決した。
これ以上の後悔は毒でしかない。そして、互いを解放する手立ては、一つしか残っていない。

「チケットが取れたら」

沈黙を破る声が、少し強めに発せられた。
シンとした空間を振るわせたそれは跡部の指を止めさせた。どんな顔をすれば良いのかが分からなくて合わせない様にしていた視線を今一度上げれば、少し離れたカウンターに凭れたリョーマが、此方を向いていた。
それはどこか、強い彼らしくて、けれど酷く弱い。いや……強いと思いたいのだろう、自分は。
理想はどこか偶像崇拝。そして自己投影。
似ていると思ったその内面に、そうありたい自分を重ねたのは、もう何年前になるだろう。

孤高の存在に。
同じく一人だった自分と。それはまるで、縋りつく様な恋ではなかったか。

そして今も。

「明日にでも、帰るから」

今度は小さく呟いて、リョーマは水の入ったボトルを呷った。
その仕草の中に自分と同じ……表情の作り方を忘れた彼を見て、跡部は一つ、息を吐く。

「そうか」

同じ様な声量で呟けば、言葉にした事でうやむやになったままの感情が腹の奥から蘇る。
自分が望んでいたのは……一体何なのだろう。まさか本当に、衝動だけに身を任せたはずもない。そんなはずはない。
彼の事が、今でもこんなに恋しいのに。

けれど。
……だから。

「ちゃんと……終わらせないか」

その背をもう一度だけ見送るから。
……もう二度と、見送らせないで欲しい。





もう、忘れさせて。






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(2006/10/16)

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