大型のハーレー-ダビットソンが、海岸沿道を走り抜けて行く。
潮風を受け流す漆黒のボディは、燦々と輝く太陽の光をも乱反射して光り。
低いマフラー音に道行く人々は皆が振り返り、時には怪訝な視線を、時には羨望の眼差しを、それぞれ向けた。
けれどその主は我関せずといった風に、あっと言う間に過ぎて行く景色の一部としてしか、それらを認識していない。
いや、実際、全く見えてなど居ないだろう。
しかし相手はフルフェイスのヘルメットの下。その表情を伺い知る事など出来ない。

ハーレーを転がしているのは、若い男だった。
ピッタリと体のラインを見せるパイル地のノースリーブから、筋肉の程よく乗った腕が伸びている。
太陽光を全て跳ね返すかの様な、健康的な白さ。
手首を覆う黒のリストバンド。それに重ねられた、重厚な光を放つシルバーブレスレット。
揃いなのか、首から下げられた同じくシルバーのチェーンには、ターコイズの付いた指輪が一つ。
海の青にも空の青にも似ている様で違うその石の青が、チャラチャラと音を立てながら揺れていた。

暫くの後にそのバイクが止まったのは、海辺のレストラン。
地元民か海水浴客くらいしか来ないのだろう、シーズンオフの平日では、客は恐らく一人も居ない。
とって付けた様なパーキングにハーレーを止めて、その運転手が久方ぶりに地面を踏んだ。
晩夏の日差しに、長らく封をされていたヘルメットの下の顔が窒息しそうで。
ヘルメットを外し、汗で額に張り付いた髪を振れば、吹き抜ける海風が涼風に代わる。
同時に、襟首に挿していた薄い褐色のサングラスをかけ、空を仰いだ。
雲もまばらな、良い天気だ。大都会から少し外れたこの海岸線は、彼のいつものドライブコースで。
男はハーレーの後ろに括り付けていた籠の紐を解いた。
通気性の良い籠の中には、青灰色の美しい光沢を持つ、猫が一匹。
断続的な振動を伴うバイクでの長旅にすっかり機嫌を損ねたのか、猫はスンと鼻を鳴らし、見つめる飼い主から目を背けている。

「Am sorry.」

優しげな声でそう囁くと、男はブーツの下で砂利が鳴るのを踏みしめながら、籠を持って、そのレストランへと入って行った。

「Hi,Jeic.」

店のカウンターの中、今にも眠りに落ちそうな店主に向かって、男は声をかけた。
新聞を掴んだままだった初老の男が慌てて顔を上げ、そして同時に笑みを浮かべる。
クルクルと巻く金髪も最近では大分量が少なくなって来たが、愛嬌のある顔と、長年培われたサーファーとしての褐色の体。
そしてその人柄から、彼を慕っている人間は多い。

「Welcome.The usual paddle?」(いらっしゃい。いつものでいいかい?)
「Yea.With the bottle,ok?」(あぁ。ボトルで貰える?)
「Sure.」

店主が立ち上がり、カウンター内の冷蔵庫を開ける。
彼が一本のジュースのボトルを引っ張り出している間に、男はカウンターの椅子へと座った。
テーブルの上には猫の籠。中では未だ機嫌の直らない猫が、反抗するかの様な鳴き声を上げていた。

「Oh,are you in a mood?」(おや、ご機嫌斜めだな?)

文字通りの猫なで声で、店主が猫へと話し掛ける。
その手からジュースのボトルを受け取ると、男はそれを一気に呷った。
蒸し風呂状態のヘルメットのお陰で、喉はカラカラで。
ものの数秒で半分まで量を減らしたボトルを見て、店主が苦笑する。

「Will you go to an expedition?」(これから遠征か?)
「It differs though it looks like. 」(まぁ、みたいなもんだけど。ちょっと違うかな)
「Aha.A homecoming?」(あぁ、帰省だな?)
「Yes.」

店主は籠から猫を抱き上げ、綺麗な毛並みの頬へとキスを落とす。
猫はそれを甘受していたが、うんともすんとも言わない所を見れば、どうやら相当機嫌が悪いらしい。
元来とても人懐こい猫で、その上店主とはとても親しい。
けれど今日は、よっぽどバイクの揺れが酷かったのか、それとも、自分のこれからを察知しているのかもしれない。

「When do you come back?」(いつ頃帰って来るんだ)
「Perhaps, I think that it is two weeks for one week.」(多分1〜2週間かな)
「The cause of Ai's bad mood might be it.」(アイの不機嫌の理由はそれだな)
「Maybe.」(かもね)

飲み終えたボトルをカウンターに置いて、男は立ち上がった。
凡そ175cmはあろうか。彼が国籍を置くここアメリカでは、大して目立つ身長でも無い。
スレンダーな体系に、確かな筋肉の隆起。けれどそれは大袈裟でも控えめでも無く、彼の体系では理想的な形だろう。
纏う物はシャツとジーンズだけではあるが、その体から発せられるオーラとでも言うべきものは、鋭くそして柔らかく、酷く印象的に出会う人間へと刻み込まれる。
所謂コレが、スター性というものだ……と、以前店主が漏らした事があったが、男は笑って受け流しただけだった。

「I'll buy souvenir. What is good?」(土産買って来るよ。何が良い?)
「I like Soka rice cracker.」(ソウカセンベイ)
「A-ha.A new toy is bought for Ai.」(了解。アイには新しいおもちゃを買って来るよ)

その言葉を理解したのか、猫が耳をピンと立て、ニャアと鳴いた。
どうやらその一言で機嫌は直ったらしい。

「Now,I'll go.」(じゃあ、行くよ)
「What time flight?」(フライトは何時だ?)
「JFK at 3 PM.」(三時にJFK)
「Have a good vacation.」(良い休暇を)
「Thanks.」

男はサングラスを少し下げ、片手を上げて笑った。
その笑みはつい先日、電波に乗って世界中に発信されたものと同じだった。
アーサー・アッシュ・スタジアムから全世界に向けて放送された、全米オープンの決勝。
1990年にピート・サンプラスが樹立した最年少優勝記録を一年近く上回っての優勝だった。

最後に愛猫へと手を振って、男は店を後にした。
愛車のハーレーに跨り、今一度ヘルメットを被る。
今からとばせば、ニ時には着くだろう……と時計を見て、男はエンジンをかけた。
低い唸り声を上げた愛車に跨り、男は今一度、空を見上げた。
十四時間後の空は夜明け。同じ空が続く場所では、今は大凡の人々が眠っている時間だ。
フライト時間を考慮すれば、丁度良い時間に着く事になるだろう。

地面を蹴りスピードに乗って、海岸沿道に滑り出した。
白い鴎が青空に斑点を付け、色取り取りのヨットが浮かぶ海を背景に、ハーレーは走る。

越前リョーマ、18歳。
彼が青春の僅かな時間を過ごした地、そしてその人生の大きな転機となった地、日本。
時差十四時間のその場所へ向かうため、リョーマはエンジンを加速させた。





リョーマが両親の故郷である日本へやって来たのは、日本で言う中学入学と同時。
母親が日本へと転勤になった事もあるが、リョーマの青春学園入学は父親の南次郎たっての希望だった。
自分の母校であり、恩師が健在の青春学園。
自己主義で比較的活動のし易いアメリカの地は、幼少時代からテニスで名を馳せて来たリョーマにとって過ごし易い環境。
けれどそれを捨てさせてまで家族揃ってでの日本への帰国を決めたのは、恐らくは南次郎がリョーマのテニスのこの先を見据えていたからなのだろう。
結果、南次郎の思惑通り、リョーマのテニスは日本の地で大きく進化した。花開いた、とでも言うべきだろうか。
数々の人間や、その人間達のテニスとの出会いで、リョーマはテニスプレーヤーとして、そして人として、大きく成長した。
それは彼にとって非常にプラスに働く事で、そうでなければリョーマのテニスは何処かで躓いていたかもしれない。
だからこそ、口にはせずとも、リョーマは父親に、両親に感謝していた。
日本に来て得たものは、本当に掛け替えの無いものばかりだ。

けれどたった一つだけ。
リョーマのテニス一筋の人生を、浸食した存在があった。

目指した先に向かって一直線に走り続けていたリョーマが見つけたもの。
それは人として当然の、一つの感情。本能そのものだった。



「      」



最後の言葉が言えずに、リョーマは日本を出た。
それを後悔した事は無くとも、ふいに思い出して胸を痛める事はある。
過去を振り返るのは彼の流儀ではないが、けれどどれだけ強い精神力を持ってしてでも、それを蝕む“何か”が、胸の奥でいつまでも燻って消えない。





十二時間のフライトを経て、リョーマを乗せたジェットは成田国際空港へ着陸した。
アイマスクとヘッドフォンを外し、代わりに今一度サングラスを着用する。
ロビーの売店を横切った時に見えた雑誌コーナーで、日本に住んでいた時に購読していた雑誌を見た。
その表紙に自分を見つけて、サングラスをしっかりとかけ直す。
誰かに声をかけられた訳ではないが、日本人はアメリカ人に比べ、幾分かミーハー的な所があるのだ。
それを確かに実感したのは、何も彼が中学生の時に既にスタープレーヤーだったからだけではない。身近に一人、女性達の熱視線を一身に浴びていた人間が居たからだ。
だからリョーマは知っている。ファンとは時に、アンチより怖い存在になり得る。
それは日本を出て三年経った今でも、骨の髄まで刻み込まれている事実だ。

液晶時計を見上げれば、昼も過ぎて夕方に近い時間。
時差ボケはし難い体質で、ついでにジェットの中では爆睡していたので、特に体に異常は無い。
けれどこの小旅行に急ぎの用事などは無いので、とりあえずは予約してあるホテルへ向かう事にした。
日本の自宅には、両親が住んでいる。だからそこへ帰れば良いのだが、今回の帰国は両親には知らせていない。
実家へ帰れば親戚達の凱旋祝いラッシュに会うのが目に見えているので、今回は内密な帰国だ。

ポケットから携帯を取り出し、電源を入れる。
そしてメールの受信ボックスの一番上、保護されているメールを一通、開いた。

全米オープンを制した日の夜は、リョーマの携帯は鳴りっ放しだった。
一般公開されているメールアドレスから転送されて来るメールで、パソコンの方もパンクしそうで。
元来面倒臭がりなリョーマはそれらに一々返事をするのが億劫で、ごくプライベートだけが知る携帯の着信やメールだけをチェックしていた。
その中に一通、全く知らないアドレスからのメールがあったのだ。

「Congratulations.」(おめでとう)

たったそれだけのメール。
けれどそれがヤケに気になって、そのメールの主に「Who are you?」と返したけれど、返事は無い。
それならばそれで、まぁ有り難う、と。それで流してしまえば終わりだった。終わりだったのだけれど。
その時、リョーマが首から下げたチェーンの先、ターコイズの指輪が、リョーマの動きと共にチャラリと鳴った。
そして思い出したのは、三年前の事だった。

全く同じ言葉を。あの時は日本語だったけれど。言った人が居た。
そしてその言葉は、今も尚、リョーマの中に残っている。
瞳を閉じれば、まるでタイムスリップしたかの様に、当時の状況を思い浮かべる事が出来た。

波打ったシーツ、軋む、天蓋付きのベッド。
淡いオレンジの明かりの中で見た、その時の彼の表情は。

空港玄関でタクシーに乗り込み、行き先を告げる。
過ぎ行く景色は少しだけ様変わりしていて、たった三年の月日が、されど三年なのだと思い知らされる。
自分は変わった。今や三年前……特に五年前の自分の痕跡など、消えてしまったかの様に成長した。
大人になるという事はこういう事なのだろうと。成長期を向かえ、表面は殆ど完成に到ったのだろう自分を見下ろして、そう思う。
嬉しい様な切ない様なそんな気持ちを抱えて、リョーマは窓ガラスに映る自分に苦笑した。
今頃愛猫は、何をしているのだろう。基本的に大人しい良い子だから、迷惑はかけていないだろうが。
15歳でアメリカへと渡って暫く経った冬。自分へのバースデイプレゼントに買った、一匹の猫。
“アイ”と名付けて、どこへ行くにも傍に置いたあの愛猫。

あれは、“彼”が飼っていた猫と、同じ種類の猫だ。

滑り込む様にして、タクシーはホテルの正面玄関に止まった。
荷物など肩からかけたテニスバックだけなので、ボーイを制してそのまま歩き出す。





確かめたかったのは、あのメールの主が本当に“彼”だったのかどうか。

けれどそう言いながらもしかしたら自分は、過去と決着を付けたがっているのかもしれない。

でももしもそのどちらもが言い訳で、本当は違う理由を持っているとしたなら。





月日は流れた。
けれど人間は誰しも過去の上に成り立っている。

リョーマはホテルの玄関を潜り抜けた。






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(2006/04/30)



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