Please tell me by the lips. [1]
「デジャビュを感じるよ、俺」
「奇遇やなぁ、俺もや」
日に日に朝夕の涼しさが増し、虫の鳴き声が小さく響き始める秋の頃。
薄手の半袖シャツが合服の長袖シャツに変わって、気の早い女子達が着ているベストがチェックのスカートに良く映えている。
絵の具を流した様に濃かった青空は薄まり、今は抜ける様な透明度を保って彼らの頭上高くを覆って。
秋の新人戦を終えて暫くは落ち着きを取り戻す運動部達のかけ声が、穏やかな秋色の風景に染まるかの様に遠く響いていた。
三年生の教室が上階に設定されているのは、一体誰の試みが切欠なのだろうか。
敷地面積の広い氷帝学園中等部でも例に漏れず、三年生が最上階と決まっている。
朝に弱い遅刻常習犯や、昼食を一階にあるカフェテラスで済ます者にとっては、億劫でしかない階段。その少し開けた踊り場に、二人の人間の姿があった。
「元々似たモン同士やし、上手い事カチっと合えばこれ以上ない組み合わせなんやろうけど」
「俺は、お似合いだと思うんだけどなー……」
彼らが留まっている踊り場から残った階段を十段登れば、そこは特別教室階。三年生の教室とは渡り廊下で繋がっている。
所謂『お坊ちゃまお嬢様校』にあたる氷帝では、副教科の指導にも余念が無い。副教科担当教員にはそれぞれに研究室が与えられていて、設備の十分に整った教室を利用しての授業のレベルも、必然的に高まるという訳だ。
高く、低く。唸る様な旋律が風に乗って運ばれて来る。
叩きつける様に奏でたかと思えば酷く繊細に泣き出しそうな音を響かせる。クルクルと変わる音色には、飽きは来ないが些か疲れてしまうものだ。
「『ラ・カンパネラ』……リストか。よぉこんなもん弾くわ」
「俺にはクラシックはよく分かんないけどぉ……こういう曲弾いてる時の跡部は、ちょっと、怖いよね」
溜息が二重にハモリ、二人は今一度、流れる旋律に耳を傾ける。
技巧は素晴らしいものだが、酷く上滑りだ。中身が無い、と言えば嘘になるが、その中身が複雑過ぎる、ましてやその曲とは全く違う方を向いているとしたら……話は変わって来る。
何のために、素人にとっては譜面を追うだけでも難しい曲を奏でているのか。
……それはつまり、ただの八つ当たりなのだろう。
最後のワンフレーズを弾き切る一歩手前で、跡部は鍵盤から指を離した。
曖昧な余韻を響かせるヒストリカルは、どれほどの名器であろうとも今はただの箱に成り下がっている。
弘法筆を選ばず……とは言うが、筆は書き手を選ぶのか。……何にせよ、ただ我武者羅に八つ当たりで鍵盤を叩かれるピアノとしては、良い迷惑だという事なのだろう。
窓を開ければ瞬間、吹き込んで来る風に煽られる。
譜面台に置かれた譜面がはためき、そのまま床へと落とされた。少し日に焼けて変色した紙は、今まで何人の手に触れて来たのだろう。
それを横目に見ながらも視線を飛ばしたのは、つい先日まで自分が立ち続けた場所……テニスコートだった。
観覧席を備えた本格的な作りのコートが三面。放課後である今は、部活に勤しむ後輩達の姿があちらこちらに見える。
つい最近の事の様に思うのに―――もうそこはお前の居場所ではないのだと、言われている様な気がした。
コンコン。
鉄筋のスライドドアを叩く控えめな音。……ノックだろうか。
音楽室のドアを叩くなど。教員の研究室でもないのに、風変わりな奴も居たものだと思いながら、そのドアを見つめる。
暫くの空白の後、静かにドアが開いて顔を覗かせたのは……よくよく見慣れた顔だった。
「ジロー?何だ、ノックなんかして」
「……もう終わった?」
「あ?あぁ、今日はもう止める」
途端に笑顔になって室内に足を踏み入れたジローは、床に落ちたままの譜面を拾い上げた。
「これ弾いてたんだ?……うっわぁ真っ黒。って、全然分かんないC」
「お前には難しすぎるだろうよ」
「こんなの弾けんの跡部か監督くらいじゃん。俺がフツーなの」
拗ねた様な物言いに苦笑を返すと、興味を失ったのか、譜面はそのまま譜面台へと戻された。
「……機嫌」
「あ?」
「悪かったんじゃないの、跡部」
些か乱暴に引かれた椅子に座って、ジローは鍵盤を叩いた。一本指で叩くのはG。恐らく、意味はない。
そこから順番に上へ上へと登っていく音階はでたらめで、けれどそれも手持ち無沙汰なだけなのだろう。
「別に、そういう訳でもないぜ」
「うっそだね。俺には分かる」
返って来た即答が意外で、思わず目を見開く。
指を滑らせたヒストリカルのボディは漆黒。磨き込まれたそれは顔が映るほどで、ジローの返答に驚く自分がはっきりと映っていた。
「俺ねー、一曲だけ弾けるのあるんだけどー」
どっから始まるんだったかなぁ?と。
適当に指を動かしては止まり、動かしては止まり。一向に曲は始まらない。
「……なぁ、ジロー」
「んー?」
その間も響き続ける一音だけの歪なメロディーが何を探っているのか、跡部には分からなかった。
そしていい加減諦めたのか、溜め息を吐いて顔を上げたジローが、跡部を見て表情を曇らせる。
それを見ているとより一層辛くなる気がして、跡部は視線を逸らす。
「俺は、贅沢なんだろうな……」
響いた声があまりに弱々しく聞こえて、あぁきっと今、そんな顔をしているんだろう、と。
自己嫌悪さえ湧くというのに、それでも強情を張る事は出来そうにない。
「……だって、跡部は跡部だから」
一見よく分からない言葉の端にあるのは、彼なりの心遣い。
付き合いが長いからこそ分かる、分かり難くて分かり易い、彼の言葉を拾う。
「無理はしない方がいいけど、譲らなきゃいけない事もあるじゃん。……なーんて」
語尾を上げて、ジローが笑う。
「跡部はさぁ、大人で居ようとし過ぎてるんじゃない?それも跡部のかっちょE所なんだろうけど、それが……辛く見える時もあるって事」
勢い良く立ち上がり、椅子が大きく音を立てた。
「言ってみれば?不満があるなら不満なんだ!って、さ」
じゃ、と手を振って音楽室を飛び出したジローを見送ってから、跡部は視線を下げた。
何をしに来たんだ、などと……そんな事は思わない。
―――そう言えば、前にも。
ふいに思い出した夏の記憶を辿れば、あの時もこうして、ふいに現れては胸に響く言葉を落として行った。
あの時は今よりもまだ……もう少しマシな悩みだったと。今なら思える。
募る想いは果て無くて。
いっそ、考えるのを止めてしまいたくなるほど、止まらない。
「……何考えてんの」
そんな声が聞こえたのは、自室のソファに座ってパラパラと雑誌を捲っていた時だった。
二人がけ用のアンティークラブソファは、二人と言わず三人でも座れるだろう座面の広さを持っている。
半ば寝そべる様にしてそこに居たリョーマが、一人がけ用のものに座っていた跡部に問い掛けた。
「いきなり……何だ」
「だから。何が不満なのかサッパリ分からないんだけど」
半ば喧嘩腰なのは、彼が彼なりに熟考した末に出した結論だからなのだろう。
眉間に皺が寄っている。どうやら、相当御立腹の様だ。
「不満だと……?」
「何か気に入らないからそんな顔してんでしょ。ハッキリ言えば」
「……」
似た様な事を……もう少し湾曲した言い方で、だが、ジローにも言われた。
どうやら自分はこの少年の事に関する時限定で、感情がやたらと分かり易く表情に出るらしい。
それは明らかなウィークポイントだ、と。跡部は溜め息を吐いた。
しかしリョーマは、それを誤解した様だ。
「……帰る」
そう小さく呟いて立ち上がると、スタスタと部屋を横切って行った。
「お、いちょっと待てよ」
「ヤダ。そんなアンタ見てても、気分悪いだけだから意味無い」
折角の休みなのに。そう言い残して扉の向こうへと姿を消した。
跡部は慌てて腰を上げるが……そのままもう一度、腰を下ろした。
追いかけた所で振り払われるのがオチで、それでも追いかけるべきなのだろうが……どんな顔をすれば良いのかが分からない。
言える訳がないのだ。本音など、とても。それがあまりにも自分勝手な我侭だと分かっているからこそ。
―――恋、を。
知れば人は……弱くなるのか。
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