コンチネンタルタンゴ
跡部の父が先代、つまり跡部の祖父から受け継いだその会社は、その時既に日本でも有数、世界にさえ名を轟かせていた巨大企業だ。
跡部家に生まれる嫡男はイコール跡継ぎ。無論跡部もそうだった。そしてそれに何ら疑問を抱いた事も無い。
跡部の名を継ぐ者として生まれ、育った。
幼い頃から叩き込まれて来た多くの習い事も、作法も、社会通念も、帝王学も。
そして、生まれながらに人の上に立つ者としての振る舞いも。
跡部にとっては自然。それが自分自身なのだから、自然に決まっている。
自分は跡部景吾。
跡部家嫡男、跡継ぎ、多くの人間の上に立つ者、そして……道具だ。
常に多忙で留守がちな両親に代わり、執事達使用人に育てられた。
欲しいと望んで手に入らないものは無い。物でも、人でも、何でも。
その内欲しいという感情すら無くなったが、かと言って困る訳でもない。
何かに固執する事がどんな意味を持つのか。
彼のそれまでの人生において、たった一つだけ手に入らなかったものが、それを教えていた。
寂しい、などと。
口にする事さえ、許されない様な気がしていた。
本当に欲しいものなど、渇いた砂の様に零れ落ちていくものだ。
いくら掴み取ろうとしても、その手に残る事などない。
初等部の頃に始めたテニスに、今までにない感覚を覚えた。楽しくて、嬉しくて、止められるまで何時間でもラケットを振り続けた。
スポーツは、テニスは。……自分を裏切らない。
ただ貪欲に、強くなる事を望んだ。生まれ持った気質と幼い頃からの教育が、一番である事を強要する。
常に上に立ち続ける。それが自分なのだと。
『アンタ、疲れない?』
その言葉は、いつ頃かけられたものだっただろうか。
「景吾」
跡部はハッとして顔を上げた。
手に持っていた書類がパサリと音を立て、ワインレッドの絨毯の上に落ちる。
組んだ足をそのままに書類を拾って、跡部は今一度、磨き込まれた豪奢な飴色の机の向こう、父親の顔へと視線を向けた。
年を追う毎に、彼の容姿に似て来る自分を感じている。
それはきっと名誉な事なのだろう。この父親は把握し切れないほどの社員を抱えた大企業の社長、つまりはトップだ。
いずれその椅子を受け継ぐのが自分であるとは言え、常に頂点を目指して来た跡部としては、今目指す場所は目の前にある。
そんな父を尊敬しているし、彼の息子である事を誇りに思う。
「どうした。先ほどから、溜息ばかり吐いているぞ」
「いえ、何でも」
「疲れているのなら今日はもう帰りなさい」
それは、父親としての優しさなのか。それとも跡継ぎが体調を崩す事を恐れての言葉か。
その顔から表情は読めずとも、また、例えその言葉に込められた意味がどちらでも。
両親に何かを期待する事は、とっくの昔に忘れた。
一番欲しいのはその腕と微笑みなのだと、その背広に、ドレスに、しがみ付いて訴える事が出来たなら。
幼い頃の自分は、何か変われたかもしれないけれど。
「その書類には目を通しておきなさい。私は明日からアメリカに戻るから、メールで意見を聞かせて貰おうか」
「……分かりました。では、お言葉に甘えて今日は帰宅します」
「それから」
「はい」
「婚約披露パーティーの日取りが決まった。後で連絡させる」
その言葉に篭った厳しさに、逃れられない現実へのカウントダウンが聞こえて来る様だった。
小さく返事を返し、跡部は立ち上がった。父が視線をやる事は無い。相変わらず忙しなく書類に目を通し、ペンを走らせている。
そちらに向かって軽く頭を下げると、荷物を持って、社長室を出た。
「お帰りですか?景吾さん」
「ええ」
「お車を」
「自分の車で来たので」
社長秘書を務める女性と言葉を交わし、廊下を早足で歩く。
今は、この社屋の中の人間全てが自分に頭を下げ、挨拶をするのが煩わしかった。
イギリス留学で休学していた一年分をプラスし、後三年で大学を卒業する。そうすれば自分は次期社長として、まずは社長秘書、それを経て重役業、最終的に父の引退と共に社長の椅子へと座る事となる。
そこは跡部が目指した頂点。けれど、敷かれたレールの上だ。
それを窮屈だとは思わない。そう育てられて来た。
けれどその様な発想が浮かんだ事自体が、跡部にとっては革命的だった。
羽が生えているかの様に身軽だった。彼は何かに囚われる事なく、レール所か道さえ無い様な歩き方をしていた。
その行く先は、目指そうと思った事もある世界だった。その世界に飛び込んで行く背中を見送る側で、終わったけれど。
影響は、多大だ。きっと、これからもずっと。
地下駐車場に入り、数時間前に駐車した愛車へと再び乗り込んだ。
エンジンをかけようとして、手を止める。そのままリクライニングを倒し、低い天井を見上げた。
彼の笑顔は、いつでもとても鮮やかだった。
挑戦的な光を宿した瞳は大きく、それはいままで跡部が出会った事の無い輝きを持っていた。
それを手に入れたいと。あんな感情を抱いたのは、一体いつぶりだったのだろう。
何かを欲しいと思う感情は、無くしたはずだったのに。
チラつくのは、つい先日テレビ中継で見た、彼。
白いユニフォームが眩しくて、けれど彼の笑顔の鮮やかさは、いつからだったか失われていた。
一年前。二年前かもしれない。もう覚えていない。
三年前。
最後に見た笑顔は、歪んでいた。
ズボンの尻ポケットに入っている携帯が、シートとの間で窮屈そうにしている。
そこには、例の“お節介な野郎”が送って来た彼のプライベートアドレスとナンバー。
それを消さずにいるのは、自分の意思だ。
自分が高校に入学してすぐ、父親から紹介されたのは未来の妻だった。
大手企業の社長令嬢で、言わば自分と同じ様な境遇の女性。政略結婚なのは勿論だが、跡部の父としては、彼女の父の経営する企業を吸収合併するつもりらしい。
いずれ自分にもその様な相手が出来るであろう事は承知していたので、決められたのならば従うより他無かった。
跡部の家に生まれた以上、惚れた相手を伴侶にしたい、などと言う意思を貫けるはずもない。
相手の女性に恋愛感情を抱く事は無かった。沸いたのは同情だった。恐らく彼女も、逃げられない現実のレールの上、走るより他無いのだろう。
同じ様な境遇の自分達が、将来の財界を背負う立場になる。ある意味似合いだ。
婚約発表は成人を待って。
成人までにはまだ五年もあったが、今合併してしまう事が双方の会社にとって最善の利益を生むのだと。
ならば自分達は言わば、互いが互いを裏切らないための、人質の様なものだ。
彼女には、誰か愛する人間が居ただろうか。
例えば自分が、彼をその腕に抱く様に。
その話をした時、はっきりと歪んだ彼の表情を今でも覚えている。
「へぇ。金持ちって大変だね」……と、そのすぐ後に添えられた言葉。もうあの時から自分達の中で、終わりの鐘は鳴り始めていたのかもしれない。
彼にテニス留学の話が来たのも、丁度その頃だった。
けれど彼は中学卒業までは日本に居ると言った。一年の頃から青学にとって掛け替えの無いプレーヤーだった彼は、その背中に背負う期待の分、青学を愛していた。
あと二年あると。そう聞いた時自分は、ほっとした。同時に辛いとも思った。
時間は限られた。出会って、手を繋いだ時点で、どこか漠然とその枠の中に居たのは分かっているけれど、そのゴールラインが明確になったのだ。
そして自分は、先に旅立つ彼を見送る事で、“婚約”という事実をうやむやにした。どこか遠くに押しやって、自分達の終わりを、彼のテニスのせいにしたのだ。
跡部は自嘲した。
浮かんで来るのはマイナスの感情ばかり、まるであの時の選択が間違っていたと思いたいかの様に。
あれは正しい選択だった。彼のテニスの可能性、自分が歩むべき経営者としての道、どちらにとっても、最良だと。
現にどちらも上手く行っている。その証拠が、先日の、彼の全米オープン制覇だろう。
けれどまだ、燻っている。
帰国しているなどと聞いたから、押さえ込んでいたものがジリジリとその蓋を押し開けそうになっているのだ。
これは、未練だろうか。
自分はまだ、彼をこの腕に抱きたいと思っているのだろうか。
彼の存在に惹かれた瞬間の、あの感情を未だに持ち続けているのだろうか。
答えは……限りなくYESだろう。
寸での所でブレーキがかかるのは、三年前の決意の深さ。
見送ると決めた。あの時の胸の痛みも、どうする事も出来ない歯痒さも、また、どうする事も無い自分への怒りにも似た落胆も。
行くなと、言えなかった。言わなかった。もし言っていたら。
最後の夜を過ごしたあのホテルは、東京都心にある。
この場所からは、本当に目と鼻の先。車を飛ばせば30分とてかからない距離。
そこに彼が居るという、その理由が、知りたかった。
願わなかったなどと言えない。
「引き止めてくれ」と縋りつかれたら、自分は迷わずそうしただろう。
「行くな」と言ったなら、彼は行かなかったかもしれない。
ただ互いにその言葉を言えずに。
未来の芽を摘む事が、怖かったから。
婚約披露パーティーの日取りが決まったと、父は言った。
間も無く自分は、跡部家の跡取りとして世間に顔を出し、その女性と将来を約束したのだと発表する。
跡部家の揺ぎ無い権力を、今一度見せ付けるための道具として。
もう後戻りは出来ない。
それならば、いっその事。
跡部は勢い良く体とシートを起こし、差し込んだままのキーを回した。
低いエンジン音と共に車体が振動し、昨夜から入れっ放しだったCDが再生を始める。
愛を語らうには不向きな、情熱のタンゴ。
その勢いに乗って、アクセルを踏んだ。
全世界に展開されている跡部グループのホテル事業は、その全てのホテルが限りなく五つ星クラスだ。
その権力の象徴の様にキラキラと輝くシャンデリアを見上げて、そういえばこのホテルに来るのも三年ぶりだと。
すると必然的に、最後にここを訪れた時の事が思い出されて。
いつもなら無駄金だと言って機嫌を損ねる横顔が、その日だけは何も言わなかった。
そっと腕に触れた時、すでに自分は、彼の決意を目の当たりにしていた様に思う。
きっと、これが最後なのだと。
フロントマネージャーが跡部の姿を見とめて、ハッと顔色を変える。
「跡部様、ようこそいらっしゃいました」
表情の切り替えはさすがプロで、けれど跡部には彼の焦りが手に取る様に分かる。
跡部家の人間がこのホテルに滞在する際、決まって最上階のスウィートを指定するのは当然の事。
しかし今、そのスウィートには先客が居る。
「大変申し上げ難いのですが、現在最上階の方に滞在中のお客様が居られまして。もう一階下のスウィートでも全く同様のサービスはさせて頂いておりますし、お部屋の質や調度品が落ちると言う訳でも……」
「いや、いいんだ」
何とか機嫌を損ねない様に、と一生懸命言葉を紡いでいたマネージャーを遮って、跡部が言う。
「最上階の客は、部屋に居るのか?」
「は、先ほどお戻りになられましたので、その様に存じ上げますが……」
「なら良い」
それだけ言って、跡部はフロントに背を向けた。
後ろでマネージャーが何か言っていた様だが、耳には入ってこない。
そのままエレベーターに乗り込み、ボーイに「最上階を」と告げただけで、跡部は黙り込んだ。
逸る気持ちと戸惑う気持ちが、並行線上を辿る様に跡部の思考を支配していた。
手遅れだと分かっていながら、それでも尚、一体自分は何をしようと言うのか。
何故帰国しているのか、何故このホテルを滞在先に選んだのか。
……何故、そんなに辛そうにテニスをしているのか。
もしも自分達が、恋愛感情を孕んだ関係になる前の、純粋に同じスポーツを愛する者としてラケットを交えていた時の様な、そんな関係に戻れたなら、それも良いと思う。
そうすれば自分は、彼の心の中に何らかの、そう例えば友人として、踏み込めるのではないかと。真意を問い質す事も出来るのではないかと。
……考えて、けれど有り得ないな、と自嘲した。
自分がここまでして尚執着する理由が、友情などで収まるはずが無い。分かっている。
望んでいる。
彼の帰国の理由が、自分であれば良い、と。
小さな音を立てて、静かにエレベーターが止まった。
開く扉に誘われるようにして一歩を踏み出し、そして。
少し先に座り込んだその姿を見とめた時。
思考を支配していた全ての感情が、意味を成さなくなる。
残ったのは一つだけ。
初めて彼を抱き締めたあの瞬間の、言い様の無い胸の高揚。