シャンパーニュの粒の味





彼が何を考えていたのか、リョーマには分からなかった。いや、分からなかったとするよりも、理解し難いと言った方が当て嵌まるだろうか。
何となく……薄々と。ポーカーフェイスの裏側に隠れた、好奇心の様な輝きを、その瞳の中に見つけていたので。

その日の夜、跡部の次に風呂に入ったリョーマは、いつも通り彼の部屋にある冷蔵庫の扉を開けた。
自分が来ようと来まいと、いつからか彼の冷蔵庫には自分の愛飲している炭酸ジュースが常備されている。キンキンに冷えたその缶を開けるのが、風呂上り一番の楽しみだ。
その日もいつもと同じくして、乾いた喉が求める爽快な炭酸を探した指先は……所在無さ気に宙をさ迷った。

「……無い」

冷蔵庫の二段目、透明なプラスティック段の上。ジュースの定位置には、見慣れない二本のボトル。
買っておいてくれと頼んだ事は無かったが、そこにあるのが当然の様に思っていたものが、無い。
よく考えれば文句を言える状況ではないのだが、しかしどこか理不尽な想いに急かされたのは、炭酸の到来を準備万端に出迎えようとしていた喉が、 ゴクリと一度、鳴ったからだろうか。

湯上りの火照った頭のままリョーマはそのボトルを一本引っ張り出し、些か乱暴に冷蔵庫の扉を閉めた。
立ち上がり、早足に向かうのはソファ。その上で、この部屋の主はスポーツ雑誌を読んでいた。

「ねぇ、コレ何?」

跡部が視線を上げる前に、そのボトルを突き出す。
ガラスのテーブル越しに突き付けられたそれにゆっくりと視線を合わせた跡部は、特に表情を変えるでもなく言った。

「シャンパーニュだが?見れば分かるだろ」

確かにそのガラスのボトルにはラベルが張ってあり、そこには『champagne』と表記されている。それが例えフランス語であろうと、 その手のボトルに入っている飲み物で、Cから始まる単語など……読めずとも想像がつくというもので。
だが当然、リョーマが言いたかったのはそんな事ではなかった。

「そういう事じゃなくて!……俺のジュースは?」
「捨てた」
「はぁ!?」

しれっと言い放たれた言葉に、リョーマは目を見開く。
偶に突拍子もない事をする人だとは思っていたが、本当に毎回予測がつかない。

「捨てた……って、何で……」
「買ってから二週間は経つだろ。腐ってたらどうする」
「腐るかよ100%果汁のジュースじゃあるまいし!」
「賞味期限や消費期限の問題じゃない。買ってから一週間以上経った食べ物や飲み物は摂取したくないだろ?」
「アンタだけだよそんなの……」

ボトルをガラステーブルに置き、リョーマは肩を落とした。
跡部の性格や生き様に今更文句を言っても仕方がないが、自分に飲まれる事なく捨てられて行ったジュース達の事を考えると切なくなった。
それに、飲めないと分かると余計に飲みたくなるのが人間だ。ここは所謂高級住宅地。近所にコンビニの様な俗なものは建っておらず、 自動販売機さえもない。買いに行くなら車を出してもらう必要がある。かと言ってそろそろ深夜前、自分の親なら別として、跡部家の使用人達に こんな時間からそんな用事で動いて貰うなんて事は出来ない。

「……最悪」

脱力したリョーマは、跡部の隣、大きく空いたスペースに身を投げ出した。
それを横目にして、跡部はバサリと雑誌を閉じる。

「他のものを飲めば良いだろーが。冷蔵庫にミネラルウォーターが入ってるぜ」
「水じゃやだ」
「コーヒーでも淹れてやろうか?」
「何で風呂上りにホットなんだよ」

駄々っ子の様に首を振るリョーマに溜息を吐く跡部。

「じゃあ何だったら良いんだ」
「……炭酸」

首にかけていた髪を拭くためのフェイスタオルで目を覆っていたリョーマには、見えなかった事だが。
その言葉を聞いて、跡部の瞳は妖しく輝いた。

「なら……それ、開けて良いぜ」

眉を顰めながら視線を上げたリョーマに、跡部が指したものは。
先ほどリョーマが引っ張り出して来て、今はローテーブルの上でその身に汗をかいている、ボトル。

「……酒じゃん」
「まあな。だが、炭酸だ」
「つーか、何で未成年の部屋の冷蔵庫に酒なんか入ってんの」
「硬い事言ってんなよ。それに、お前の好きな葡萄だぜ?白葡萄だがな」
「葡萄だったら良いってワケじゃ……」

リョーマがまだ言葉を紡いでいる間に、跡部はソファから立ち上がり、キャビネットからシャンパングラスを二つ、取って来た。

「どうする」

グラスを差し出しながら、跡部が問う。
リョーマは一瞬言葉を切った。酒で喉が潤うものなのかどうか疑問ではあるが、アルコールを含んでいるという事以外は白葡萄味の炭酸水……みたいなものだろうか。 それに、いくら酒とは言え液体なのには代わらない。実際先ほど自分が取り出したのだから、それが冷えているという事は重々承知している訳で。
その一瞬の間の逡巡。その隙を、跡部が見逃すはずもない。

ポンッ……!

小気味の良い音が響き、コルクが勢い良く発射される。それを掌で受け止め、跡部はシャンパーニュをグラスに注いだ。
薄い琥珀色と弾ける炭酸の粒。
―――ああ何だか、美味しそう。
そう思ってしまった時点で、リョーマの負けだった。





チーズとキャビアの乗ったクラッカーが用意され、突然始まった小さな宴会は続く。

「もう一杯……!」

細長いシャンパングラスを高々と上げ、催促するのは……跡部だった。

「ねぇ、もう止めた方が良いって」
「うっるせぇな、俺の酒だ!いくら飲もうが俺の自由だろーが!」
「いや、未成年じゃんか一応」
「年齢なんて関係ねぇんだよ……俺の心はとっくに成人している!」

明らかに……酔っている。見れば分かるが、この言動は異常だ。
手酌でボトルを傾け始めた跡部を横目に、リョーマは深い溜息を吐いた。

初めの内は調子が良かった。勧められたシャンパーニュは、さすが跡部と言おうか、本人曰く『大したものじゃない』だそうだが、上品な味わいに ジュースには無い高級感を感じて少々感動したものだ。
喉ごしの良さに一杯、二杯と増えて行き、ボトルが一本空いた頃だっただろうか。……跡部の様子が、おかしくなり始めたのは。

リョーマは、実はアルコールに耐性がある。
幼い頃から父親である南次郎が口癖の様に言っていた。『成人してから初めて飲んでる様じゃ、アル中になってぶったおれちまうぞ』。
その言葉に添う様に、彼はリョーマに酒を飲ませた。ビール、ワイン、酎ハイ、ウイスキー、焼酎。少しずつ少しずつ、慣らす様に。
幼い頃はそれこそ、何度か意識を飛ばすほどに酔っ払ったものだが、今となっては多少の量ではビクともしない肝臓を手に入れてしまっていた。
勿論その自覚があるからこそ、リョーマは割と簡単に酒を口にしたのだが。

「おい……酒が無ぇぞ……!」

どうやら跡部は、違った様だ。
それでも酔い始めは、リョーマの半分程度しか飲んでいなかったはず。何せ彼は、ほとんどリョーマのグラスに酌をするのに専念していて、自分自身は然程……とは言っても五杯程度だっただろうが……飲んでいなかった。 顔色を変えないリョーマに何だか苛立った様な素振りを見せて、立て続けに呷り始めて……そして、コレだ。

「もう品切れ。おしまい」
「何でだよ……あれだけ買っておいたのによ……」
「アンタがどんどん空けてったんじゃん」

ボトルを逆さにして振りながら、跡部が声を荒げる。
そのボトルをさり気無く取り上げながら、リョーマは呆れ顔で呟いた。

「弱いんだったら飲まなきゃ良いのに……」

実際の所、跡部は決して、酒に弱い訳ではない。言うなれば、リョーマが強過ぎるのだ。
それに加えて今日は、まるで湯水か何かの様に呷って呷って呷りまくって。

「……何か、嫌なことでもあったワケ?ヤケ酒したくなる様な、さ」

懲りずに、空いたボトルを全て引っ繰り返している跡部に、リョーマが尋ねる。
酒を飲むと人格が変わる人間は多々いる。跡部がその中の一人だった所で何ら不思議はない。ただ、普通な所もあったんだなぁ、なんて思うだけで。
それにしても……どうもおかしい。本来なら跡部は、飲まずとも良かったはずだ。元々は炭酸ジュースの代わりにシャンパーニュを開けた。最終的に決断をしたのは リョーマだ。跡部自身がここまでベロベロになる理由は、思い当たらない訳で。

リョーマの言葉に、跡部の手が止まる。
持っていたボトル、そしてグラスをテーブルに置くと、リョーマの方へ向き直り……ふいに顔を近づける。

「……ちょっ」

完全に油断していたリョーマは、そのまま一気にソファへと沈められてしまった。
目の前には上気した跡部の顔。そしてその上に天井。
顔の横に付かれた跡部の手が、やたらと熱い。

「お前が……そっけないからだろーが」

ポツリと呟かれた言葉に、リョーマは目を見開く。
浮かぶのは疑問符。今何て?と、尋ねる前に、跡部はリョーマを抱きすくめてしまっていた。

「う……っ、く、苦し……」

いつもなら……こういう体制になる時には、腕を付くなり、上半身を起こすなりして、跡部の全体重がリョーマにかかることは無い。
だが今日は、その手の気遣いは一切見られず。ついでに言うと、力加減も一切無しで、羽交い絞めるかの如く、跡部の腕はリョーマを抱く。

「……!ね、重い……!!」
「……んだよ、抱き締めるのも無しってか」
「そーいうのじゃなく……って!」

無理矢理肩を押し上げてスペースを作り、半ば必死で呼吸をする。
跡部は、心底不服そうな顔をしていた。その瞳はアルコールで完全に潤んでおり、熱を秘めたそれは例えば夜の顔なんかに似ていたのだが、 今の状況でその様な色めいたことを思い出している余裕もない。
必死の抵抗も、体格差の前では無力。跡部が腕を緩めることはないし、リョーマに出来るのは、必死で腕を突っ張って気道を確保することくらいだ。

「ね……マジ、どうしたんだよ。アンタらしくないって……!」
「俺らしいって何だよ」
「俺よりアンタ自身の方がよく知ってそうじゃん……つか!苦しい……!!」

リョーマが体を捻り、半ば強引にソファから這いずり出る。
体制を引っ繰り返す様にして跡部をソファに沈め、リョーマ自身は無理矢理起き上がり、その腕の中から抜け出した。

「っは……っ、も……何やってんだよ……」

酒乱の気があるのだろうか。
半乾きだった髪はぐしゃぐしゃに乱れ、パジャマ代わりのTシャツもよれて捲れ上がってしまっていた。
手早くそれらを直したリョーマは、再び跡部に向き直る。
跡部は……それをじっと見ていた。

「ねぇ……マジ、どうしたワケ。それとも、酒飲むといつもこんな感じ?暴れるタイプ?」
「……違う」
「だったら何で……」

呂律は回っているが、目は必要以上に据わっている。しかも潤んでいる。
ソファに寝転がったままリョーマに視線を流す跡部の表情は、半ば無表情に近いものだった。

「お前が、」

跡部が小さく呟く。

「全然嬉しそうにしねぇから……」

そう言いながら跡部は、リョーマから視線を逸らしてしまった。

「……嬉し……そう?」

予想外の言葉に、リョーマの中で再び浮かぶのは疑問符。
てっきり学校かどこかで何かあったのだと思っていたのに……今確かに、お前、と言われた。それはつまり、自分のこと。で、間違いないだろうか。

「俺が……?」
「他に誰がいるんだよ」
「そりゃそうだけど……」

跡部が、ソファの上にあったクッションを蹴る。
床の上に落とされたそれは、一つ弾んで転がった。

「俺は、テニスマシンじゃねぇぞ……」

次に跡部が呟いた言葉に、リョーマは目を見開く。

「テニスがしたけりゃ、外で幾らでも打って来いよ。俺じゃなくても良いだろ」
「何言って……」
「テニスの無い俺は、お前にとって何の価値も無いのかよ……!」

その台詞に思い出したのは、今夜のこと。
跡部家にあるナイターコートが照明の故障のために使えないと知ったのは、すでにこの家に着いてからだった。
出鼻を挫かれたリョーマは、他のテニスクラブのコートに打ちに行くか?と尋ねた跡部の案を半ば自棄になったまま却下し、不貞腐れたまま時を過ごしていたのだ。

「そんなこと一言も言ってないじゃん……」
「そういうことだろうが。どうでも良さそうな態度ばっかり取りやがって……」

普段の跡部ならば、そう言葉に出すことはなかっただろう。
リョーマが必要以上にクールな性格をしていることが十二分に知っているし、それがリョーマにとっての普通であることも分かっている。
けれど。過剰摂取したアルコールが、跡部の心を饒舌にさせていた。

「マジ、有り得ねぇ……」

溜息と共に吐き出して、跡部はその目を腕で隠してしまった。

リョーマは、戸惑っていた。
勿論、そんなつもりは毛頭無かったし、確かに今日の自分の態度は傍目から見ても気持ち良いものではなかっただろう。
ただ、久しぶりに連休だったから。存分に打てると思って、顔に出さずとも意気揚々と尋ねて来たというのに、その出鼻を挫かれて……拗ねてしまったのだ。
今思えば、やけに子どもっぽい言動で振舞っていたものだ。振り返れば、恥ずかしくさえなる。
それにしても跡部が……こんなことを思っていたなんて。

リョーマは跡部の寝転ぶソファの傍に膝をついた。
覗き込んだ表情は腕に隠されて見えないが、唯一。引き結ばれた唇に、自身のそれを近づける。

「……何してんだよ」

数秒触れただけで離れて行ったそれを追う様に腕を外した跡部の額に、頬に。リョーマは口付けを落とす。
戸惑い顔の跡部は無視して、再び唇に触れると、押し開く様にして深く、口付けた。

アルコールに犯された口内は、互いに熱い。
白葡萄の味とアルコールの味を共存させた舌を離して、リョーマは跡部の胸に顔を置いた。

「キスなんて、しない」

いい加減頭にまで回って来た酔いが、跡部の判断力を鈍らせている。
些か霞み始めてさえいる視界の中で、今し方口付けていたばかりの唇が、言葉を紡いでいた。

「俺さ、どうでも良いヒトとキスなんてしないんだけど?」

―――ああ、それはそうだな。
リョーマの性格を知っている跡部に、分からないことではないはずだったのに。

「眠いんでしょ」

リョーマが囁く。

「明日の朝、アンタがこのこと覚えてたら。そしたら、何回でも言ってあげるよ」

跡部の意思に反して、瞼がどんどんと重くなっていく。
目を開けていたい、声を聞いていたい、そう思っているのに。

「俺が貴重な休みに、アンタと会うこと選んでる理由。ねぇ、俺はアンタが―――

ホワイトアウト。
強烈な睡魔の中に、跡部は引き摺り込まれて行った。





遮光カーテンの隙間から漏れ出る朝の光が、跡部の意識を覚醒させた。
ボンヤリとした視界の中で体を起こそうとして……走った激痛に思わず顔を歪める。

「オハヨ」

真横からの声に視線を飛ばせば、面白そうに笑っているリョーマ。

「っ……!な……んだ、これ……」
「二日酔いじゃないの。まぁあれだけ飲んだら、当然だよ」

耐え切れずに頭を抱えたまま俯く跡部に、リョーマが尋ねる。

「で、昨日のことはどこまで覚えてるの」
「きの……う?」
「飲み始めくらいまでは覚えてるんでしょ?」

思い出そうと意識すればするほど、頭痛が酷くなる。
眉間に寄った深い皺を見て、リョーマは再び笑った。

「そうなるだろうなって思ったから、言ったんだけどね」
「何のことだ……」
「別に。昨日のアンタは可愛かったなーって」

何かを含んだ言葉に反論することも疑問を投げることも出来ず。
やたらと機嫌の良いリョーマを不審に思いながらも、やはり意識は頭痛の方に行ってしまう。

「でもアンタって絶対ベッドで寝るんだね。完全に寝てるのに、ちゃんとベッドまで自分で歩いたんだよ?運ぶ手間が省けて良かったけど」

そんな言葉を拾いながらも跡部は、枕元に置いた内線用の受話器を手に取った。

「頭痛薬……」

一言だけ告げて通話を切ると、そのまま枕に沈んだ。

……リョーマに酒を飲ませたらどうなるのか。少しくらいは素直になるのか。
ただそんな好奇心だけで立てた計画が、どうやら自分に跳ね返って来たらしい。

ギリギリの思考の中でそう判断して、瞳を閉じる。

頭痛が治まったら、尋ねてみよう。
きっと素直に教えてくれはしないのだろうけれど。

そんなことを思いながら。





END




2007年度・夏、暑中お見舞い申し上げます。
ってどこが夏?といった内容で申し訳ありませんが、まぁ……夏=開放的、という感じで(笑)
未成年者の飲酒は禁止されておりますので、真似しないで下さいね!(お前もな!)

酒に弱い受けというものは大層可愛らしいと思うんですが、やはり引っ繰り返したいのが私でして。
越前家の教育方針はまんま我が家のものなんですが、そう育てたからと言って酒に強い人になるかと
言うと必ずしもそうではありませんね。酒の強さは生まれつき決まっているそうですし。
折角なんでもっと色っぽい展開にしても良かったんですが、うちの跡リョにはこんなオチが似合うみたいです(笑)

何にせよ、お酒はほどほどに!

こんなんで良かったらお持ち帰り自由です。
サイト掲載の際には著作の方をチラリと書いて頂けると有難いです。

夏真っ盛り。皆様体調にはお気をつけて!

UP : 2006.08.04