Sweet envy mind


全身が纏う疲労を、何よりもその眉間の皺が物語っていた。 黒塗りの高級車が走るのは深夜に差し掛かった時間帯の国道。断続的に続くオレンジ色の光が、スモークガラスに映っては後ろへと流れ続ける。対向車のヘッドライトを見るのが億劫で、跡部は少し、視線を下げた。 左腕で鈍く輝く重厚な腕時計は、数年前の誕生日に父から贈られた物だ。あの頃の自分にはあまりに不釣合いで使うのを躊躇われたそれが、今は誂えたかの様にピッタリとその手首に収まっている。曇りなく磨かれているのは、恐らくは自分の世話役でもある執事の手によって。文字盤の頂点に埋め込まれたダイヤがキラリと光るが、その輝きでは薄暗い車内で時刻を確認する事は出来ない。こういう時、バックライトの点る流行物のスポーツウォッチの便利さを思うが……少なくとも今日の服装には、不釣合いこの上無いだろう。 目を凝らすのも馬鹿らしくなって、跡部は息を吐いた。ついでとばかりに首元の第一ボタンを外し、蝶ネクタイをスルリと抜く。 少しは気分が紛れるかとも思ったが、どうやらその身に纏ったタキシードを脱ぎ捨てなければそれは叶わない様で。凝りを解す様に眉間を指で叩いては、今一度、溜息を吐いた。 所謂社交界の場に顔を出すのは、跡部にとっては跡部家の嫡子として当然の責務だった。大体の場合は父が母を連れて顔を出すだけで十分なのだが、今日の場合は勝手が違った。 財界の著名人の還暦祝いパーティ。海外からの来賓も多数招かれているらしいそのパーティに跡部が出席するに到ったのは、簡単に言えばマダム達からの受けの良さが原因だ。まだ中学生という事で通常なら然程表舞台に出る事の無いはずの存在が、生まれ持ったカリスマ性と所謂“外面”に騙されたマダム達にえらく評判が良い。故に父が招待を受けた時、招待主から直々の電話で言われたそうだ、ご嫡男様も是非おいで下さい、と。 そのパーティの主役は、跡部自身も面識があった。一代で巨大企業を築き上げたやり手ではあるのだが、女にだらしないという専らの噂。それが真実かどうか、跡部にはどうでも良い事だったが、恐らく今回自分が招待を受けたのは、自分の出席と他の女性達の出席率に何かしらの関係があるからではないだろうか、と。半ば確信を持って、そう思っている。 証拠に、という訳ではないが。引っ切り無しに挨拶に来る女性達の相手をするのは、流石に疲れた。明らかな媚びや色目に靡くつもりもなければ邪険にするほど世間知らずでもない。女の一言で男が、金が、社会が動くかもしれない。それは幼い頃……それこそその媚びや色目が無かった頃から父に聞かされて来た事で。その場に居る女性達の後ろを見れば、自ずと分かる事でもある。 故に貼り付けた社交界用の笑顔を崩さぬまま二時間。よくよく味わう事も無い立食用の皿とワイングラスを持ったまま、父から帰宅の許可が出るのを待っていたのだから。 郊外に切り開かれた私有地に滑り込んだ車は、自動開閉の門を抜けて玄関へと向かう。噴水を抜けて静止した後部座席のドアを、出迎えた執事が開けた。 「お帰りなさいませ、ぼっちゃま」 小さく返事を返して車から降りれば、長時間のドライブで余計に凝った背中が少し痛んだ。 仄かにライトアップされた玄関は主の帰宅を待っているのか、深夜近いと言うのに人の気配がする。執事はともかく殆どのメイドも寝静まっているだろう時間に、少し妙だ。 「……何かあったのか」 あったのだろう、と。初老の執事に視線をやれば何故だか機嫌が良さそうで、跡部は眉間に皺を寄せる。 「はい、実は……」 そうして告げられた言葉に、跡部は目を見開いた。 幾つも続くドアの前を通り、廊下を抜けて屋敷の最奥部へと足を急がせる。半ば競歩の様な速さのそれに、いつもなら後ろを付いて来る執事も諦めたのか。それとも……恐らくは、遠慮しているのか。 親よりも親らしく自分を育てた執事の全て見透かした笑顔を思い出し、何をそんなに喜ぶのかと。執事から言わせれば、今こうして部屋への道を急いでいる事自体がイレギュラーなのだ、と。勿論跡部自身は全く気付いては居ない。 他のドアよりも豪奢な作りになっている観音開きの前に立ち、上がり掛けた息を整える。自室なのだからそれこそその勢いのままドアノブを押し開ければ良いのだが、恐らくはその先五メートルの応接セットのソファ、またはその奥の寝室のベッドか……そこに居るだろう存在を思うと、自然と足が止まった。先ほど確認した携帯には着信もメールも無く、アポ無しの来訪に戸惑わずには居られない。……いや寧ろ、喜びにも似た感情が渦巻いている。何せ、二週間は空いただろう以前の逢瀬からの時間に、先ほどまで引き摺っていた疲労も忘れる思いだった。 カチャリと小さな音を立てて開いたドア、その十分な隙間に体を滑り込ませると、思った通り、アンティークソファに沈んでいる緑掛かった黒髪がチラリと覗いていた。 後ろ手にドアを閉め、歩を進める。毛足の長い絨毯に革靴の靴音は消されて、どうやらそのソファの住人は部屋の主の帰宅に気付いてはいない。 それもそうだろう、時間が時間だ。早寝遅起の彼の事、起きているはずもない。 ソファの上から覗き込めば、三人掛けのソファに体を投げ出し、ずり落ちそうになりながら眠る少年の姿があった。 嫌味なほどに健やかな寝顔だと思うのは、忘れたつもりでもやはり疲れているからか。それとも、起きていると射す様に鮮やかで強い眼差しが瞼に覆われた事で、幼さに拍車が掛かっているからか。 どちらにせよ、寄っていた眉間も自然に解れ、跡部は床に膝を付いた。 顔を近づけても、一向に目覚める気配は無い。神経質の気がある跡部なら、眠っている時に寝顔を覗き込まれるなど有り得ない事で、近付かれる前に気配で目を開くだろうに……スヤスヤ、という擬音が似合う寝顔には、全くもって毒気が抜かれてしまうのだ。 「しょうがねぇな……」 酷く柔らかな響きで呟いて、跡部はその頬をスルリと撫でた。久し振りの逢瀬だが、こうして眠ってしまっている以上、起こしてまでどうこう……とは思わない。機嫌を損ねる云々を抜きにしても、今はこの安らかな眠りを妨げてやりたくは無かった。 その体を抱き上げて寝室へ運ぼうと、頭の下に手を差し込んだ……その時だった。 「……甘い匂いがする」 甘く掠れたハスキーボイスが響いて、跡部は手を止めた。未だ閉じられたままだった瞳が、ゆっくりと開く。 「化粧品の、匂い……だよね」 おかえり、と。 順番が違うだろう、と言葉を挟む隙が無かったのは、至近距離の瞳が、起き抜けとは思えないほどに鮮やかだったから。 「……狸か」 「人聞きが悪い。アンタが勝手に勘違いしただけでしょ」 けれども小さく欠伸をして。どうやら寝ていたのは本当で、跡部が部屋に入った時に目を覚ましたらしい。 「それよりも」 そう言ってリョーマは、大きな瞳をスッと細めた。跡部が動くよりも先に、その指が緩められていた跡部のシャツの首元へと伸びる。 体を起こし、引き寄せるがまま首元に顔を寄せたリョーマは、スンと鼻を鳴らした。 「香水……フローラル。アンタのと混ざってるけど、これ、女ものだろ」 その言葉に、跡部は体を硬くした。 恐らくは……いや、これは確実に、先ほどのパーティで挨拶を交わした女性の誰かのものなのだろう。香水などその中の殆どが纏っていたので、誰が誰などとイチイチ覚えてはいない。 リョーマの顔はそのまま移動し、首元を人質に取られたまま動く事の出来ない跡部はじっとしているより他無い。 数秒してその唇が頬に押し当てられた。流石の跡部も何事かと身を離そうとするが、しっかりと掴まれた襟が嫌な音を立てただけだった。 唇、そして舌が頬に触れて、小さく舐め上げて離れた。同時に首が解放されて、跡部とリョーマの間に一定の間隔が出来る。 けれども相変わらず近い視線、無表情なリョーマに、跡部がどう口を開こうかと一瞬の逡巡を見せている間に、リョーマは唇を舐め、言った。 「口紅の味。……どこの女と遊んでたワケ」 咄嗟に頬に触れる。そう言えば、と思い出すのは、やはり先ほどのパーティで。軽いハグとキスを交わすのが通常の挨拶である欧米流の礼儀に勿論則した自分だったが、頬に残った口紅はきちんと拭ったというのに。……クレンジングをした訳ではないので、味が残っていても無理は無いかもしれない。 「何を疑ってる?」 「浮気」 「馬鹿言ってんじゃねーよ」 この格好を見れば分かるだろう、と。多少肌蹴てはいるが上質のタキシードと、整髪剤で撫で付けた髪。明らかに社交用のそれに、気付かないはずもない。 リョーマはそれらをチラリと見やり、ふうん?と呟いた。 一から十まで説明しなければ分からない様な相手ではない。恐らくは、本気の言葉でもない。 それでも、忘れていたはずの疲労を思い出してしまうほどには、多少の苛立ちを感じた。 「大体、この二週間練習続きで会えない、だとか抜かしたのはお前だろうが。その間に何をしてたのかなんざ、分かった事じゃねぇ」 「何それ。俺が嘘吐いてるって?」 「それが分かるのはお前だけだろーが」 吐き捨てる様に言えば、リョーマの眉間にも皺が寄る。恐らく自分も似た様な顔をしているのだろうと、頭の片隅で思った。 「俺は誰かさんと違って、女に群がられる様な人間じゃないんで」 「ハッ。そりゃ名誉な言葉を頂いたモンだな」 「……バカじゃないの」 低い呟きに瞳を見つめ直せば、相変わらず強い光がそこにあった。その輝きには、毎度毎度負けそうになるが……自分には全く非は無い。 けれど次の瞬間、跡部は目を見開いた。 ……その瞳が消えたと思ったら、背中に腕が回されていた。必然的に、顔は胸に押し付けられている。 「……オイ」 「バカじゃない、ホント」 少しくぐもった声が、同じ不名誉な言葉を繰り返した。 「何してんだよ」 けれど引き剥がそうとはしないまま、跡部が呟く。 スッカリ毒気の抜かれたその声、先ほどまでの苛立ちは一気に沈静されたのだろう。元々突発的なものだ。 「折角練習試合終わったからその足で来たのに」 そうして続いた言葉に、跡部はその小さな頭を撫でる事になった。 それこそ、この部屋に戻って、その寝顔を見た瞬間の様な、穏やかな表情で。 「俺が待ってんのに、どっかの女にキスなんてされてんなよ。早く帰って来い、バカ景吾」 それは、可愛い嫉妬心。 END (2006/12/10) あれ、リョーマの人格変わっちゃ……った。 久し振りの更新が、何だか甘い様な苦い様な良く分からないものになってしまいましたが;; 実習中にふっと浮かんだネタだったと思うんですが、よく覚えて無かったので……どうだろうか。 リョーマは賢い子ですから、跡部の事情も全て承知している上で、それでもちょっと位嫉妬してみたり。 ……可愛くなり過ぎたかな。 BACK