織姫の涙雨が空を染め上げる頃。
俺は、不敵な笑みの腕を取る。
愛逢月、愛合月。
日本独特の行事事を知らずに居て、驚かれる事にももう慣れた。
例えば一年間で一番印象的だったのは、その日の空気の冷たさまで鮮明に覚えているヴァレンタインデー。出身がアメリカだとは言え両親共に日本人の俺だ。日本のヴァレンタインがどういったものなのかは、話には聞いていた。ただ、通学路、学内での手渡しは勿論、教室のロッカーや机の中への無断放置、果ては部活中だと言うのにコートの周りを取り囲む女子女子女子。
そしてそれを苦笑しながらも、まぁいつもの事、と受け止めている先輩達……さすがの俺も、あの時ばかりは押し寄せる大群と山積みの箱に恐怖を覚えた。
「憧れの異性にチョコ、またはそれに準ずるものを渡すという事……いや寧ろ、この日が来れば誰かしらに渡さなければならない、と、細胞レベルで染み付いているのかもしれないな。もしかすると、その事自体が彼女達にとってのステイタスなのかもしれない」
……なんて、分かる様な分からない様な分析を披露した先輩も、余分に増えたLLサイズの紙袋には溜息を隠せていなかった。
そして俺も、米神を引き攣らせながら重い紙袋を抱え、冬空の下を帰路に着いた……所で、丁度良く視界の端に止まったんだっけ。専用の運転手さんが運転中以外はずーっと磨きこんでいるせいで(本当、ご苦労様だよ)上品な光沢でピッカピカの、黒い外車。
そう言えばあの日も。
……意外とイベント好きなんだろうか、なんて考えている間にあの日と同じ黒い外車が滑り込んだのは、滑走路脇の誘導灯が白く赤く眩しい……空港だった。
「……どこに向かってんの?」
「どこに行きたい」
ウエルカムドリンク、なんてもんじゃない。普段好んで飲んでいる、今正にいつもの黒服の執事さんが搾った、100%のオレンジジュースをグラスで傾けながら彼は言った。ちなみに同じものが目の前のテーブルに置かれているが、残念ながら今の俺は、それを喜んで飲む気分にはなれない。
「つか、もう飛んじゃってる時点でこの会話ってオカシイだろ」
「それもそうだな。……勿論、冗談だ」
脱力。
先ほどベルトランプが消えて自由になった体を、嫌味なくらいフカフカのソファに完全に沈めた。
この手触りは……ベルベット。一体どこの応接間だよ。
「とりあえず新千歳に向かわせている。向こうは、晴れているらしいからな」
そこで初めて知った目的地に、目を見開いた。
「ほっ……海道、だよね、新千歳って」
「ああ。よく知ってたな」
「バカにしてんの?」
「いや?」
片眉を上げて、心外だ、とでも言いたいかの様な表情を浮かべた彼は、細身のジーンズを履いた足を組みかえる。
彼の家が規格外の大金持ちだという事は、今まで散々思い知らされて来たので十分理解している。
自宅は東京だとは俄かには信じ難い広大な土地の上に立つ豪邸、その他にも別館、別宅が数件。
夏になると軽井沢の避暑地に立てた、ドラマのロケ地の様にさえ見える洋館で、自校の部活仲間達とテニス三昧。
登下校は黒塗りの外車、大勢のメイドに執事、望めば世界中の如何なる料理をもすぐさま並べる料理人達。
数々のコンクールで賞を取った血統書付きのペット達。私有の牧場にはサラブレッドの名馬達がその活躍を待っている。
年中花の咲き乱れる庭園も、いち中学生の私室とは思えない調度品で飾られたその部屋も、天井画の天使達の隙間からぶら下ってるシャンデリアも。
そんな環境が当然の世界で育てば、常識観念が一般と違えるのも無理はない。そこは妥協せざるを得ない。
……とは思っているけれど。
「アンタ、変だよ」
言わずには居られない言葉を呟いて、俺は溜息を吐いた。
俺が今座っているこの一人掛けソファは、現在空を飛んでいる。勿論ソファが空を飛ぶわけは無いので、正確にはこのソファを設置した小型旅客機が、フライト真っ只中、という事なのだが。そう言えば以前、彼の家の名前が入ったヘリに乗った事もあったっけ。呆れ返ってよくよく見たわけじゃないけれど、この旅客機のボディにも、確かローマ字で入っていた様な気がする。
『ATOBE』の名が。
「気のせいだろ」
「絶対違う」
「細かい事は気にするな」
「気にするだろ普通……!」
言葉を返す事にすら疲れて来た俺に対して、彼はあくまでも上機嫌に見える。窓の外を猛スピードで、実際そうは見えないけれど本当はかなりのスピードで過ぎて行く薄暗い雲の波を、見ている様だ。
部活が終わり、帰路に着こうとした俺を待ち構えていた、校門前に止められた例の外車。
乗れ、との指示に素直に従ったのが馬鹿だった。明日の部活は昼からだし、まぁ良いか、なんて思ったのが馬鹿だったのだ。
まさかその足で……空の上まで飛ばされるとは思っても見なかったのだ。
『今日は何の日か知ってるか』
『……さぁ』
『七夕と言って、色々な迷信の語り継がれている日だ。まぁ、それ自体はどうでも良い』
『何?』
『折角の機会だからな。星を見に行こうかと思う』
この時点で、今日は曇りだから無理じゃん、とかそういう言葉が必要だったんだ。そうすれば彼もきっと、だから北海道に行こうと思う、って返してくれた……と信じたい。そうすれば幾らでも対処法はあった。今からとか無理だって明日も部活だから!とか、俺疲れてるからまた今度にしてくんない?とか……最悪ベッドにでも誘ってしまえば、彼だってこの無理な小旅行を諦めてくれたはずだ。
全ては後の祭り。この小型旅客機は、新千歳空港に向かってテイクオフしてしまっているのだから。
「……星をわざわざ見に行くワケは何」
諦めてしまえば、もう、しょうがないな、という気持ちになって来る。それくらい、いい加減この人に慣れた。
視線を此方に戻した彼は、あぁまだ話して無かったか、と呟いてこう続けた。
「元は中国の昔話だそうだが、七夕伝説というのがあってな。地方によって様々で本当の所どうなのかは分からないが、年に一回七夕の日にだけ逢う事の許された一組のカップルの話だ」
「へぇ」
「天の川ってのは知ってるか?」
「ミルキーウェイの事でしょ」
「それを挟んで瞬く二つの星がある。それに準えてるみたいだぜ」
……言いたい事が段々分って来た。
つまりこの人は、見かけよりずっとずっとずっと。
「ロマンチックだろ?」
あぁ、やっぱり。
「年に一度しか逢えないってーのは、どうなんだろうな」
「よっぽど生真面目か一途じゃない限り、まぁ浮気するだろうね。それで自然消滅」
「……夢の無い事言うなよ。雰囲気が壊れるだろ」
「生憎ロマンチストじゃないんだよ、悪いけど」
満天の星空。くっきり見えるミルキーウェイと、二つの星。
「それでこそお前、だろうがな」
「分ってんなら良いじゃん」
「少し、黙れ」
橋を通って逢瀬を楽しむ恋人達と、その下の俺達と。
ムードは違えど、重ねた唇はきっと同じ。
END
(2007/07/08)
生温い感じのギャグ……です。多分。
全国版の天気予報で調べた所、北と南の端と端では天の川が見られる……かも?との事でした。
この二人からして、沖縄より北海道だろう、と思って。
たまに変な人・跡部様。
リョーマは極々常識人ですが、柔軟なので合わせてあげます。大人!(笑)
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