good morning
週末を共に過ごす約束が果たされたのは、最後の逢瀬から十数日以上が過ぎた頃だった。
リョーマは今や飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を続ける青学の主力選手。歴代最強と謳われた現三年生が引退を迎え、それによって残された選手達の内でも、既にレギュラーを誇っていた三人の肩に掛かる重圧は計り知れない。我関せず、と至極気侭なリョーマと言えど、部活動とは集団生活だ。身を置くからには、それ相応の働きが必要で。
つまる所、部活が非常に忙しい、という事だ。
年上の恋人との約束を、何度かキャンセルせざるを得ないほどに。
ようやく許された休日を、明日に控えた夜。いつもの様にラケットバッグを背負ったリョーマが、跡部宅へやって来た。
「遅かったな」
「……練習試合。不動峰と」
執事に案内されて部屋へと足を踏み入れたリョーマは、出迎えた跡部に疲れた顔で呟いた。
本能に擦り込まれているのだろうと思うほどに、リョーマはテニスが好きだ。食事や睡眠と同じくして、恐らくテニスを取っては生きられないだろうと思うほどに。
そんな彼がテニス漬けの生活に、不満を抱く事はないだろう。
幾ら強いとは言えど、リョーマはまだ一年で。そんな彼を表立ってでなくとも、やっかむ上級生は存在する。
三年生という大きな存在が無くなった今、部内で保たれていた均衡が微妙に形を変える。
僅かとは言え確かな環境の変化に、心が着いて行かないのではないだろうか。
……らしくない溜息を吐いたリョーマを見ながら、跡部はそう思った。
肩からずり落ち掛けていたラケットバッグを受け取る形で掴んで、先ほどまで自分がいたソファへと置いた。
リョーマは怪訝な顔をしている。眉を寄せて此方を見ながら、何か言いたげにしていた。
「今日は、止めとけ」
跡部の言葉を聞いた瞬間。元々から大きな目が更に見開かれ、そして不機嫌に細められる。
苛立ちが、ありありと浮かんでいた。
「何で!」
「疲れてんだろーがお前」
「疲れてない。これくらいでヘバる俺じゃないんだけど」
「嘘吐け。部の主力メンバーの殆どが全国大会経験者の不動峰が相手なら、練習試合、そう楽に終わるはずもないだろ」
「俺はちゃんと勝ったし。それに、アンタにはそんな事関係ないじゃん」
「……そんな疲れ切った顔したヤツとテニスするつもりはねぇ」
例え遊びであっても……と。
跡部宅にはナイター設備の整ったグラスコートがある。手入れが大変だから、と殆どの市営コートや学内のコートがハードコートやクレイコートである中、その存在はリョーマの中では大変貴重だった。
固いゴムの靴底に当たる、柔らかな芝の感触。これがとても好きだった。
そして望めば大概は相手をしてくれる、この跡部景吾。
氷帝学園のカリスマ部長として200人を纏めたその腕は、数少ない、リョーマを満足させられる強さを持っていた。
このコートで、跡部と打ち合う。その楽しみのために……本当は疲れた体を、まだいけると自己暗示を掛ける様にしてやって来たと言うのに。
勿論、それだけの理由でこの場所に足を運んでいる訳ではないけれど。
跡部が自分を気遣っているのは分かっている。ここに来る前に駅のトイレで何気なく見た自分の顔は、お世辞にも元気そうには見えなかったかもしれない。
けれど。……この苛立ちをぶつけられるのは、テニスしかないと言うのに。
理解はしても納得は出来ない。
どうしようもない感情を持て余したまま、リョーマは唇を噛んだ。
その様子を見ていた跡部は小さく息を吐き、ソファに沈めていた体を起こして腰を上げる。
入り口近くの壁に凭れ掛かったままのリョーマの、顔の横に腕をついた。至近距離でその瞳を見下ろせば、ゆっくりと視線が上がる。
「それともお前は、テニスの相手をしない俺なんかに用は無い、とでも?」
先ほど脳内で否定したばかりの、恐らくは誰だってそう感じるであろう疑問を、跡部はサラリと言った。その顔に困惑も動揺も無い所を見れば、答えなど分かっているのだろう。こういう時は、必要以上に聡いこの男を少しだけ憎らしく思う。
「……そうだって言ったら、どうする気」
口を突いて出るのは、天邪鬼な虚勢。
普段ならもう少し上手く立ち振る舞うはずなのに、やはり本当に……疲れているのだろうか。これじゃあまるで、嘘ですよとバラしているも同じだ。
その証拠に、跡部は片眉を器用上げてから、小さく笑った。シニカルなそれに馬鹿にされた様な気がして、リョーマは眼前上の瞳を睨み上げた。
「なら、どうすれば良い」
「テニスすれば良い」
「それ以外で、だ」
頑として譲らないのは互いで、それぞれに想っている事がある。
そしてこの場合折れるべきなのは、どう考えても……リョーマだ。
跡部の空いた右手がリョーマの頬に伸ばされた。すいと掠めて項を擽り、顎に指を掛ける。
「強情も良いが……忘れてる事があるだろ」
「……何だよ」
跡部の顔が少しずつ近付き、条件反射的にリョーマは瞳を細める。
結局の所、どれだけ苛立っていてそれをぶつけたとしても、この男はそれを往なしてしまうのだ。
それくらいにはいい加減、毒されている。テニスだけが取り柄の男ならば、自分は選んでは居なかっただろう。
唇の表面がカサリと音を立てて擦れる距離を保ったまま、跡部が言った。
「久し振りに会う恋人に、キスの挨拶一つもねぇのか?」
だからリョーマは煽られた苛立ちのまま、多少乱暴かと思う強さで、先に唇を押し付けた。
そして跡部は、それさえも簡単に往なしてしまうのだ。
夏服のシャツの背中を抱き寄せられ、リョーマを目を閉じた。
「明日は」
「……あーん?」
キスの合間にリョーマが囁く。彼の利き手が跡部の左胸に緩く押し当てられていた。それごと包み込む様に体の距離を詰めながら、跡部は尋ねる。
「明日なら、良い?」
何を言うかと思えば。
この様に甘い空間でも、彼の頭を占めるのはやはりテニスばかりの様だ。
嫉妬と言うには緩い焦燥感。けれど少し、気に入らないとも思った。
「……お前が起きられたら、な」
言外に潜む言葉の意味に、リョーマは溜息を吐く……はずだったのだが、それさえも飲み込む様に唇が塞がれる。
疲れているだろう、と言ってテニスをさせないこの男は、それでも別の場所では容赦が無い様だ。
引き金を引いたのは、間違い無く自分の行動と言動だろうが……それでも、それは了承しかねる。
けれど抗議の言葉を発する事は、許されなかった。
次第に深くなる口付けに応じながら、蕩けて行く思考の中で明日の早起きを誓うリョーマだった。
酷く心地が良かった。
甘い香りのする微温湯に全身を包まれている様な。体の隅々までもが温かく、柔らかい温度が肌を滑る。
母親の胎内……羊水に浮かんでいた頃の自分は、きっとこの様な心地だったのではないか。そう感じた。
ふと、遠くの方で声がした。自分を呼んでいる様で、緩慢な意識をそちらへと向ける。
けれど思った。もしその声に応えてしまったら、この空間は失われてしまうのではないか。それは、嫌だ。
声は呼んでいる。返事をしなければ。けれど、けれど。
問答無用で次第にはっきりとして行く意識の中で、頬に触れる何かを感じる。
全身を包んでいる微温湯と、同じ温度。心地の良い温度だ。これは……誰かの体温なのか。
声が、呼ぶ。
「起きてってば、景吾」
跡部は瞳を開いた。
厚いカーテンが引かれているせいで寝室は少し薄暗い。それでも漏れ入る朝日は、今日が晴天である事を告げていた。
薄く開いた視界の中に映るのは、見慣れた自室の寝室。
そして、薄いシャツを一枚ひっかけただけの、少年が一人。
「何回も呼んでんのに。珍しいじゃん、アンタがこんなに起きないなんて」
先ほどまで体を包んでいた微温湯は、体温で温まったシーツだったのか。
そして、同じ温度を共有していた指が、触れていた頬から離れて行く。
「……お前の早起きも十分珍しいだろーが」
欠伸を噛み殺しながら体を起こすが、いつもなら即覚醒するはずの頭が今日はやけに緩慢だ。
時間を確認すれば、昨夜眠ってから五時間ほどだろうか。十分とは言えないにしても、それなりに眠った方だ。
まさか昨夜、リョーマに言った言葉が自分に跳ね返るとは……。予想もしなかった結果に、跡部は唇に笑みを刻んだ。
リョーマは早々にベッドから降り、クローゼットを開けていた。中から引っ張り出したのは以前置いて帰った自分用のプライベートテニスウエア。ポロシャツから靴下までの一式を持って、彼はベッドに戻って来る。
「ちょっと、いつまでボケっとしてんの。早く起きて、朝飯食べて、コート行こう」
跡部を急かす様にそう言ったリョーマは、身に纏っていたシャツを脱ぎに掛かっていた。
「……そう急ぐなよ。テニスは昼からでも良いだろ」
「何言ってんの。起きられたら相手するって言ったの、アンタだろ。約束破るワケ?」
キッ、と音がする様な視線が向けられ、跡部は溜息を吐く。
どうしてこうもこの少年は。もう少し甘い空気を持続させてくれても良いだろうに。
「朝飯。……何が良いんだ」
立てた膝に乗せた腕に顎を乗せ、跡部はリョーマに問う。
シャツのボタンを半ばまで外したリョーマの視線が、今一度跡部に向いた。
「……ご飯」
結局は、彼の望んだ通りに自分は動くのだろう。
それさえも、まぁ良いか……と思える事こそが、貴重。
カーテンを開ければ、そこには薄く青い綺麗な空が広がっていた。
END
(2007/01/17)
ミツヨシさまへ、心からの感謝と共に捧げます。
年始と当時に頂いたリク、遅くなりましたが、何とか仕上げる事が出来ました。
年賀状交換をさせて頂いた時に送って頂いたイラストのリョーマから、妄想した跡リョ……という事で。
今までに無いタイプのリクだったので、ご希望に添えているかどうか不安なのですが;;
跡リョの真ん中には、やっぱりテニスだよなぁ……って事で、相変わらずテニス馬鹿なリョーマです。
こ、こんなもので宜しければ、お持ち帰り下さいませ……では!(言い逃げ)
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