ただ、笑った顔が見たいから。
今宵のメニューをもういちど
食欲をそそる良い匂いが、その部屋には立ち込めていた。
グツグツと鍋の煮える心地良い音と、包丁のリズミカルなステップ。それら一連がまるで音楽の様に響く中、その中心で、機嫌良く腕を振るっている男が、一人。
ともすれば鼻歌までも聞こえてきそうなほどに、彼の機嫌の良さはその背中から滲み出ていた。
連休を控えた、今日は金曜。白い壁にかけられた時計は午後七時過ぎを示している。
それをチラリと横目で見た男は、たった今切り終わったばかりのジャガイモを大鍋へと移し始めた。
ダイス型のジャガイモの角が取れ、スープにとろみを生み出す頃。その頃に恐らく、玄関のチャイムが鳴る。
銀色のおたまで深い緋色のスープを掻き混ぜながら、そんな事を思った。
今日帰りがけに買ってきたフランスパンは切り分けられ、冷蔵庫の中では、パプリカとスモークサーモンを使った彩り鮮やかなオードブルサラダも出番を待っている。
デザートに作ったオレンジムースは、チルドルームでその身を震わせている事だろう。食事が終わった頃には、丁度食べ頃になっているはずだ。
チン!……軽い音が鳴って、彼の足元のオーブンの電源が落ちた。ジュウジュウとその身を焦がす本日のメインディッシュが、その中で、香ばしい芳香を放っていた。
その香りからして料理の成功を確信した彼は唇に笑みを刻み、弱火に設定した大鍋にそっと蓋をした。後は頃合まで煮るだけだ。
元来器用な上マメな跡部景吾にとって、料理をするという行為は、周りがどの様に見ようとも、それなりに得意な事には違いない。
ただ、育ちが育ちなので、今まであまり腕を振るう機会が多くなかっただけなのだ。
両親の教育方針は“何でも出来る人間は何もしなくて良い”というもの。
跡部家には彼が生まれるよりずっとずっと前から、料理人が居たし、メイドが居たし、カーデナーが居たし、当然の様に執事も居た。そんな家の跡取り息子として、しかも一人っ子で育った彼が、実際家事一般の何をも出来なかったとしても、それは当然の様に映るだろう。
けれどそれを良しとしなかった両親は、一般教養の上乗せとして、少なくとも一人で社会に出た時に困らない程度の家事がこなせる様、メイドや執事に彼を教育させたのだ。
勉強にスポーツに……数知れないほどの習い事をこなして来た跡部だが、その息抜きの様に行われる家事の、特に料理を、彼は好んだ。
器用でマメで、その上に凝り性な彼の性格に、一見不似合いな“料理”がぴったりと当て嵌まったのだ。
ピンポーン。
焼き上がったメインディッシュ、グリルチキンのオリーブ焼きを切り分けていた跡部の耳に、その音が飛び込んで来た。
包丁を一旦置いて手を洗った跡部は、スリッパがパタパタと言わない程度に、けれど多少の早足で玄関へと続く廊下を抜ける。
玄関のドアロックを解除して、そのドアを押し開いた。
「……無用心じゃない?」
来客は開口一番にそう言うと、唇の端に笑みを乗せ、跡部を見上げた。
「強盗だったらどうすんの」
「カメラで確認した。……ほら、荷物寄越せよ」
「いーよ自分で持てるから」
そう言った来客から無理矢理荷物を奪い取り、跡部は一歩身を引いた。
肩を竦めながらも作られたスペースに滑り込んだ来客の背後で、ドアが静かな音を立て、閉まる。
「腹減った。……凄い良い匂いしてんじゃん」
「あぁ、すぐに用意出来る。手、洗って来い」
「はーい。お邪魔します」
靴を脱いだ玄関で控えめにそう言いながら、彼は勝手知ったる家の中、洗面所へと向かう。
その背中を目で追いながら、跡部もまた、キッチンへと戻りチキンの切り分けを再開した。
跡部が生きて来たこの15年間で、これほどまでにその料理の腕が振るわれた事は無い。
この数ヶ月の内で彼のレパートリーは一気に増え、時には自宅の料理人からレシピを聞き出し、それを熱心にメモする姿も見られている。
それも一重に、食にうるさい我侭な恋人のため。
その人物、越前リョーマは、たった今洗面所からダイニングと入って来た所だった。
「何か手伝う事、ある?」
「冷蔵庫にサラダが入ってる。それと飲み物を出しておけ」
「了解」
言われた通りにサラダとミネラルウォーターを冷蔵庫から引っ張り出したリョーマは、食器が既に用意されているテーブルへとそれらを並べた。
跡部の手によって切り分けられたチキン、そしてニョッキ入りのミネストローネを運ぶのを手伝って、今宵のディナーが完成する。
「食べて良い?」
「ああ」
「いただきます!」
逸る気持ちを抑えられない!という風に慌しくフォークを掴んだリョーマを、跡部は微笑ましい気持ちで見ていた。
さすがに自宅での何の変哲も無い日の夕食で、オードブルとサラダを一緒にしてしまっている今日などは、例えばフルコースの様な礼儀作法は必要ないかもしれない。
けれどその身に染み付いた習慣で、跡部は迷わず、サラダの中でまるで花の様にその身を丸めているサーモンへとフォークの先を伸ばした。
しかし彼の食事の進み具合は、さほど順調とは言い難い。目の前で瞬く間に消化されて行く、リョーマの皿ほどには。
「どうだ?」
「んまい(美味い)」
「なら良い」
跡部の胸の中が、じんわりとした充実感で満たされていく。
目の前で忙しなくナイフとフォークを動かし、時にはスプーンに持ち替えて、そして時にはグラスを取って。
焦らずとも誰も取らない上におかわりも十分にあると言うのに、掻き込むとまでは行かずとも、リョーマはいつも早食いだ。
以前、もっと味わったらどうだと言った事があった。けれどその時、リョーマはケロリとした顔でこう言ってのけた。
ただでさえ臨戦態勢の胃袋に、こんなに美味しい物を入れたら、スピードが上がって当然でしょ?と。
彼が部活を終えた後、よく部の仲間達と寄り道をして、買い食いをしているらしいと知っている。
けれど今日の様に跡部を訪れると決めている日だけは、買い食いなどで空腹を紛らわせたりはしないのだと。
その言葉からそんな事実に辿り着いた跡部は、その時ほど、自分が料理を習っていて良かったと思った事は無かった。
それ以来、例え食べる事に忙しく感想すら漏らさないリョーマの、食べる順番が跡部的に言えばデタラメな食事も、彼にとっては微笑ましい事この上無いものに変わったのだった。
そして30分後。
「ごちそうさまデシタ……」
三度のチキンのおかわりと、四度のスープのおかわりを経て、最後にデザートを丸々二人前、完食したリョーマ。
スポーツ選手の胃袋は、その体型とは比例しない事が多いとは言うが……リョーマの場合はそれの度を越している様な気がする。
跡部とて食が細い訳ではなく、一般レベルから言えばよく食べる方なのではないだろうか。しかしそんな跡部の食欲も、リョーマの前では普段通りに発揮される事も無い。
けれどそれならそれで良い。跡部は思った。
リョーマが美味しそうに自分の作ったものを食べる姿を見ていれば、何となく、腹が膨れた様な気分になるのだ。
「10点中100点」
「満足したか?」
「十分。……苦しいくらい」
そりゃあそうだ、と跡部が笑った。
キッチンのシンクにうず高く積み上げられた食器達を食器洗い乾燥機に入れて、しっかり絞ったタオルで食卓を拭いて。
まるでモデルルームの様に美しい跡部のダイニングが、そこに再び現れる。
それを満足気に眺めた後、片手間に沸かしておいたコーヒーをカップへと注いだ。
少しミルクを大目に入れたリョーマの分と、ブラックの自分の分。二つのマグカップを持って、跡部はリビングへと踏み込む。
そこのソファでだらりと寝そべって雑誌を読んでいたリョーマが、顔を上げた。
「ご苦労サマ」
ん、と差し出されたカップを受け取ったリョーマは、ラブソファの右端に詰めた。
そして空いたスペースに跡部が座って足を組む。
所謂定位置というやつに、自然と体が落ち着くのが分かった。
「アンタってさ」
湯気を立てているカフェオレに息を吹きかけながら、リョーマが口を開いた。
「ホント、何でも出来るよね」
「……何だいきなり」
リョーマの口からするりと飛び出した褒め言葉に、跡部が眉を寄せる。
素直じゃない天邪鬼な年下の恋人は、ストレートな表現を避けて避けて。けれど本心に気付けと暗に示すのが好きだ。
けれど今の言葉は、それこそぽろりと零れた様な、意識しないままに呟いた様な、そんな言葉だった。
「そのまんま。褒めてるんだけど」
「……気色悪ィ」
「何でだよ。って言うか、何それ」
「今までの自分を振り返ってみろ」
「まぁ……うん」
と、ここで素直に引いた所も負けず嫌いな彼らしくなくて、跡部は眉間の皺の数を増やす。
自分で考えていて些か情けない様な気もするが、こんなリョーマは記憶に無い。実際に誰かに尋ねた訳ではないので定かではないけれど、どうもリョーマは自分の前では、普段以上に天邪鬼な様だ。
「どうした」
「え?」
「何か言いたい事があんだろ?アーン?」
少し距離を縮め、その大きな瞳を覗き込む。
琥珀色の光彩はいつも通り綺麗に輝いている。その奥に嘘も隠し事も見当たらないので、どうやら言う気になった様で。
「……あのさ」
「なんだよ」
「お願いがあるんだけど」
そう言ったリョーマは、左手を跡部の方に伸ばす。頬に触れた手はそのまま首筋へ降りて。
軽く身を強張らせた跡部の隙を縫い、リョーマの唇が跡部の頬に落ちた。
そして耳元で囁いたリョーマの言葉は。
「茶碗蒸しが食べたい」
ほんの30分前までもりもりと摂取していた夕食を忘れ。
そして今のムードを引っ繰り返す様なその発言を認識するのに、数秒のタイムラグを要した跡部だった。
そして翌日の夜。
昨日はブイヨンやオリーブの香りの漂っていたキッチンに、今日は一番だしの香りが充満している。
実家から運ばせた最高級のカツオと昆布を惜しげも無く使い、大鍋でだしを取った。薄い飴色の液体が立てる静かな音に、すぐ傍のカウンターからキッチンを覗き込んでいたリョーマの期待は、どんどん膨らむ一方だ。
「言ってみるもんだよね。本当に作れるんだ?」
「レシピさえあれば大概作れるだろ」
「それは景吾だからでしょ」
「煽てても何も出ねぇぞ。茶碗蒸しにキャビアでも乗せろってのか」
十分にだしの出たカツオと昆布を引き上げながら言った跡部の目前の壁には、実家に勤めている和食専門の料理人にファックスさせた茶碗蒸しのレシピが貼り付けてあった。
今まで何度か、リョーマの希望で和食を作った事がある。跡部が学んで来た料理は殆どが洋食だったので、極基本的なものではあったけれど。
それに跡部の中では、和食イコール料亭で食べるもの、の認識が強く、強請られるまでは作る事も無かった。
リョーマはリョーマで、跡部の洋食の腕前を知っている上、食べさせて貰っている身だ、という意識があったのだろうか。今まで具体的なメニューの指定をした事は無かったのだ。
「そう難しい料理でも無い。蒸すのに多少時間がかかるから、お前は向こうへ行ってろ」
「いいじゃん別に。見てたいし」
「……何でだよ」
「俺のオーダーした茶碗蒸しを作ってる景吾……なんて、見逃せない」
そう言って笑ったリョーマを見て、跡部は思わず掴んでいた菜箸を取り落としそうになった。
不意打ち。天然なのか狙っているのか。リョーマは偶にこうして、男心を擽る様な事を言う。
けれどそれをそうと分からせるのは悔しい上にプライドに反するので、そうとは見えない様にけれど慌てて、跡部は次の準備過程へ入った。
冷めただし汁をゆっくりと溶いた卵に加え、調味料と共にザルで二度こす。
予め用意しておいた具材を容器へと盛り付け、最後に卵液を静かに注いだ。
かまぼこ、剥き海老、しいたけ、軽く酒蒸しにした鶏ササミ、そして特別に用意させたあるもの。
それらが静かに沈んだ容器を、湯気がもうもうと立っている蒸し器に入れ、少しずらして蓋を閉めた。
「後は蒸すだけ?」
「そうだ」
「で、次は何してんの?」
「何でも良いだろが。つか、邪魔だから向こう行ってろよ」
「じゃあ手伝う」
「要らねぇ」
邪険に言われても、それが本気の嫌悪を込めていない事などリョーマにも分かっている。
と言うか、跡部作の茶碗蒸しが食べられるのが余程嬉しいのか、リョーマの纏う空気はとても軽い。
「御飯くらい炊けるって」
「後十分で炊き上がる」
「じゃあ食器」
「もう出した」
手元で三つ葉を切り分けながら跡部が言うと、リョーマは少しだけ眉を寄せて。
けれど一瞬で笑顔に戻り、いつの間にやら周った跡部の背後から、彼の背中に抱き付いた。
「っ、おい!危ねぇだろ!」
「景吾」
「何だ」
「ありがと」
そして、無理矢理引き寄せた跡部に、触れるだけのキスを送った。
今度こそ跡部が菜箸を取り落としたというのは、言うまでも無い。
そして約20分後。ダイニングテーブルに並んだ茶碗蒸し、そして和食メニューに向かい、リョーマはその大きな瞳を輝かせていた。
「いただきます!」
「好きなだけ食え」
白い陶器の器を目の前に引き寄せ、上品な細工模様の入った蓋を開ける。
陶器と陶器の擦れる音の後、ふんわりと広がるのは幸せな香りの湯気。
ほんのりと柚子の香りを漂わせるのは、茶碗蒸しの表面を覆っているあんかけ。
所々に見え隠れする鮮やかな緋色は、蟹の解し身で。
「……ヤバい」
「あ?」
同じく茶碗蒸しの蓋を開けていた跡部は、視線を上げる。
リョーマは同じく陶器のスプーンを構えたまま、茶碗蒸しを凝視していた。
「滅茶苦茶美味そうなんだけど」
「食えばいいだろ」
「でも、何か勿体無い」
至極真面目な顔で何を言うかと思ったら。
跡部はそれを見て、また例の満足感に満たされていくのを感じていた。
例えば、跡部がその財力を使って、リョーマに何か贈り物をしたとして。けれどそれが今の、そして先ほど跡部にキスした時のリョーマの、あの表情を浮かばせるかどうか。……答えは恐らくNoだ。
跡部が跡部の手で何かを作る。リョーマの望んだものを、作る。
その事の意味を、リョーマの表情が何よりも雄弁に語っていた。
「冷めるぜ?」
「うん……」
実際、とても良く出来たと思う。自宅から送られてきたファックスの見本と、見た目の狂いは寸分も無い。
そして味にも絶対の自信がある。
跡部はスプーンで自分の茶碗蒸しを一匙掬った。プルプルと揺れている匙の上で、あんかけと蟹が、蛍光灯の光を反射するかの様に光っている。
腕を伸ばし、未だスプーンを活用出来ないままのリョーマの口元へと持って行く。
「ほら、口開けろ」
一瞬の逡巡の後。鼻先の好物に勝てなかったリョーマは、その口を控えめに開いた。
その隙間にスプーンを持って行き、リョーマの口が動いた手応えの後、スプーンを引いた。
「……どうだ」
リョーマの喉が上下するのを見届けてから、跡部が問う。
答えは分かっていたのだけれど。
浮かんだリョーマの笑顔は、今日も今日とて、跡部の食欲を満足感で満たしてしまう鮮やかさだった。
END
(2006/06/22)
ミツヨシさまに捧げます、相互記念の跡リョで御座います。
本当に本当に、大変長らくお待たせしてしまって……っ!!
「跡部がリョーマに茶碗蒸しを作る(リョーマが跡部に茶碗蒸しを強請る)」という素敵リクを頂いたのですが。
茶碗蒸しというより寧ろ、跡部様のお料理教室〜……みたいな事に(笑)
書き始めが丁度夕食前だったもので、読んでいて腹が減る様なSSにしよう!という裏計画の下、書上げました。
跡部が見事にメッシーに成り下がっておりますが、跡部にそこまでさせるリョーマが凄いんだぜ。という事にしておいて下さい。
改行等を含むレイアウトの変更はどうぞご自由にvv
こんなのでよろしければ、貰ってやって下さいませ。
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