BUBBLE TRAP
「有り得ねぇ……」 広げたバスタオルの上、丁寧に並べたポンド紙幣を横目に、跡部は盛大な溜息を吐いた。 今思えば、本当に浅はかだったとしか言い様がない。数時間前に戻れるのならば、その瞬間の自分を全力で止めるだろう。 何故、忘れ去る事が出来たのか。寧ろ、邪魔だとばかりに投げ捨ててしまった記憶さえある。 愚かだ。馬鹿だ。有り得ない。 唯一の救いは、携帯をコートのポケットに入れていた事と、手帳を鞄に入れていた事。 これらがもし、スーツの内ポケットにでも入っていたとしたら……考えただけでも恐ろしい。 幸い、プラスティック製であるカード類も問題ない。だからと言って、被害は財布の中身だけ……という訳でもなかった。 一番の問題は、そんな物じゃない。 跡部は天井を仰いだ。 袖が裏返りボタンは引き千切られ、散々な事になっている自分のスーツ一式。 纏めてクリーニングに出した所で朝までに出来上がるはずもなく、代わりはホテル内の衣料店で適当に見繕うしかない、と思いながら、水気を吸って相当な重さになっているそれらを、引っ張りあげた時だった。 鈍い音を立てて、バスルームの床に落ちたそれを見て。 跡部の血の気が引く。 それはまだ中学生の頃。父から誕生日にプレゼントされたものだった。 10月生まれの自分のために、文字盤はオパール。虹色のプレイオブカラーの美しいそこに、大粒のダイヤをあしらった品だ。 勿論一点物で、年に数回はメンテナンスを施し、特別な何かの日にしか着けない、それこそ特別な時計。 それが……見るも無残な状態となって、その床に落ちていた。 すぐさま拾い上げてタオルで拭うものの、その程度でどうにかなるものではない。 スイスの時計職人が一つ一つ手作業で作るそれに、生活防水が施してある訳がない。そして勿論、生活防水などで補える程度の被害では、到底なかった。 何故今日、これを着けていたのか。 大切な会議、取引があったから。 ……そして、大切な日だったから。 動きを止めてしまったそれを片手にソファに身を沈めるものの、幾ら待ってもその繊細な針が再び動き出す事は無かった。 反して。 瓶に入ったミネラルウォーターを煽る様に飲み、いやに爽快な表情で伸びまでしている男が一人。 あぁ、良い運動した。 ……とでも言いたげなその横顔に、若干疲弊している自分を悟られたく無い様な。変な意地が湧いてくる。 そう言えばあの時も……結局自分は、体力負けしたのではなかったか。 もう何年も前になるテニスの試合を思い出し、こみ上げるのは苦々しさ。 今となっては、諦めも付く。相手はプロテニスプレーヤー、片や自分はいち大学生兼企業家だ。日頃からジム通いは続けているものの、体力の差は歴然としているだろう。 しかしあの頃は。体格の差を差し引いても、結局自分は、彼の前で意識を失った。 ―――底なしめ。 視線に気付いてこちらへと歩いてくる彼の、引き締まった体躯を見ながら思う。 「ん」 欲していると勘違いしたのか。持っていた瓶をそのまま手渡され、とりあえず、口を付ける。 よく冷えた喉ごしは爽快なものだったが、そんなもので拭えないのもまた事実。 空いたソファの隣に体を預け、未だ雫を垂らす髪をフェイスタオルで拭いながら。リョーマは跡部の視線の先、その壊れた時計へと眼を向ける。 「壊れたの」 「……誰のせいだ」 「誘いに乗ったアンタのせいじゃん?」 「引きずり込んだのはお前だろ」 「何、嫌だった?」 ―――アンナニシトイテ? 酷くセクシャルに囁く唇に、どくん、と一つ。 何故だろう。例えこの体格差が数年前と比べ物にならないほどに近付いていたとしても、年齢差だけは埋められないはずなのに。 そして小さく微笑んだリョーマは、次の瞬間、あ、と口を開いた。 「そーだ。良いモンあるよ」 備え付けのローブを下着の上から羽織り。前は留めないままに、軽やかに翻す。 寝室に引っ込んで数十秒後。戻って来たその手には、四角い箱が握られていた。 「手、貸して」 言われるままに左手を伸ばせば、固定された手首に金属の感触。 カチャリ、と軽い音を立てて留められたそれは、確かな存在感を放っていた。 「俺使わないし。あげる。あ、Merry Christmas!」 「……今思いついただろ」 「いーじゃん別に。気に入らない?」 嵌められたのは腕時計。 よくよく見ずとも高級ブランド品で、記憶に違いがなければ、未発売モデルではないだろうか。 一度外して裏返せば、刻まれた銘がある。 日付。大会名。そして、チャンピオンという文字。 「……貰えねぇよ」 「何で?」 「これ、この間の大会の副賞じゃねーか。こういうのは、大事に取っとくもんだ」 跡部の壊れた時計が一点物なら、これも正しく一点物。 チャンピオンを冠するこの男以外が、持ってはならない代物だ。 外したそれを掌に落とせば、不服そうに眉を寄せる。 しかし次の瞬間、再び掴まれた左手が引かれ、今度は手首に舌が這う。 驚いて引こうにも絡めた指がそれを許さず、不敵に笑った唇がリップ音を残して離れれば、同じく時計にも口付けを送り。 再び、金属で固定される手首。 「USAとUKを繋ぐ長ーい手錠。要らないなんて、言えるの」 そうして、巧妙過ぎる唇が、顔中に降り注ぐのを受け止めながら。 開いた隙間から脇腹を撫で上げる手で、ステンレススチールのベルトが小さく音を立てる。 その口から漏れる吐息は、昔と何も変わらない。 けれど、素直過ぎるその心と体が曝け出されるのが、この身の前だけだと思うと。嬉しくて堪らないのだ。 縛られている。毒されている。愛されている。 そして自分も同じ様に、拘束して、侵蝕して、溢れるほどに愛を注ぐ。 壊れた時計は修理に出そう。 中身を全て取り替えれば、再び息を吹き返すはずだ。 そうしてそれは、本当に本当に特別な日にだけ。 それ以外の多くの日は、彼に囚われ、縛られ続ける事にしよう。 丁寧に施されるマーキングを全身で返し、意味を成さない下着をなぞる。 ―――これは俺のものだ。 同じ欲望に目の前を歪ませ、同じ独占欲に溺れ、濡れ。 怠惰を貪る様に、肌を合わせる。 愛の言葉は要らないから。 この一瞬に全てを捧ぐ。 ―――さぁ、どちらが罠にかかる。 50:50の攻防は、もう何年も昔から。 終わらない交戦が“終わらせない”交戦だと、きっとどちらも気付いてる。 END 2009年最初の更新がこれって、今年も思いやられますね!(笑) 当初はもっと爽やかな話だったんですが、書き進める内にどんどんアダルトに。 あれ、これってサイト内でも類を見ない感じのエロ要素じゃね? ……まぁ、こういうのも普通に書きます。五年後シリーズはアダルティなのです。 問題は、そこなのか。それとも、年が明けて大分経った今「メリークリスマス」とか言わせてる事にあるのか。 今年も宜しくお願いします。 (2009/01/11)