呼吸をする様に抱き合い、瞬く様にキスをして。
求めて焦がれて欲した存在に、恋われる幸せに酔いしれる。

想い合う事で救われるのなら、精一杯愛し合おう。
例え何を壊しても、この存在だけは離さない。





薄く開いたままの窓から、夜更けの風が潮の香りを運んでくる。
小さく揺れるカーテンはけれど控えめで、遠く近く聴こえる波の音と呼応するかの様だ。

―――静かだな。
他に形容仕様がないその空間の、例えば、溜息を吐く事すら憚られる様な。
壊しがたい静寂の中に身を置きながら、跡部は、何をするともなく視線を漂わせていた。

セミダブルのベッドを中心にした狭い部屋には、生活感が溢れている。
蝶番が壊れて閉まらなくなったというクローゼット、クレヨンの拙い落書きが今も消えない壁紙、そこら中に散らばった衣服、雑誌。
形ばかりの学習机も、物置きとしか言えない様相で。
普段、自分が身を置いている空間とは180度違うその部屋で、何故ここまで落ち着いていられるのか。実際の所、跡部自身にも不思議でならない。
いつもの自分であったのなら。ドアを開けた瞬間に身を翻すか、全てを纏めてゴミ袋に押し込むか、するだろうに。
そしてその答えにも、大方の見当はついている。
この部屋の主が……今、自分の真横で寝息を立てている、彼であるからだろう。

上半身を起こしてベッドのヘッドボードに背を預けている跡部に対し、彼はその身を縮こまらせたまま、小さく寝息を立てている。
明らかに長身の部類に属するだろう男二人。ダブルサイズでも難しいと思う様な二人が、セミダブルのベッドに身を寄せ合っている。
薄いタオルケットにその身を包ませて眠る彼は、長い手足を器用に折り畳み、ぎりぎりベッドから落ちない場所に止まって、またそんな危機感などは全く感じさせない安らかさでもって、眠っていた。
それを可哀想に思った跡部は、少し前、ベッドから出て行こうとした。
しかし、その腰にしっかりと巻きついた細い腕が、それを許さず。結局、この場に留まらざるを得なくなってしまったのだ。
起こさない様に、とずり上がる形で今の体制に持って行きはしたが、今思えば、少々の刺激で目を覚ます様なタマでは無いと、よくよく知っている自分だ。
けれど強引に引き剥がそうとしなかったのは……恐らくは、その腕に縛られている事に、穏やかな愉悦を感じているから。
望んでいるのだ。触れ合っている事を。
そして、彼もそうだから眠りに落ちようとも腕が離れないのだと。そう、思いたい。

深い緑の光沢を持つ黒髪を、ついと撫でる。
瞼にかかる、長めの前髪を分ける様にすれば。擽ったかったのか、眉根を寄せながら小さく唸った。
その様が微笑ましくて、自然と笑みを刻んでしまう。
一度その瞼を開けば、鮮やかで、強くて、全てを射る様に見据える瞳が現れるのを知っている。
けれど今、眠っている彼の表情に、その鮮烈なほどの光は無い。
逆に、少し幼く見えるほどの穏やかさに、跡部はどこか、既視感を覚えていた。
そう、それはまるで……出会った頃の彼と何ら変わりの無い様な。
けれど、シャープな形を描く頬や顎も、凛々しい印象を与える綺麗な眉も。やはりどこか、大人びていた。
昔は緩やかな曲線を描いていたその頬に触れながら、時の移ろいを思う。

例えばこうして、再び抱き合う事が出来るだなんて。思い描く事すら出来たはずもない。
遠過ぎた。遠過ぎた存在だった。それこそ、雲の上という表現が大げさには思えないほどに。
正しく、羽ばたいて行った彼の背を見送る事が、唯一自分に出来る事。見守る事が、最後に許された事。そう思っていた。

触れ合わせた唇を思う。
繋いだ手を、抱いた背を、名を呼ぶ声を、思う。
そのどれもが彼で、けれど彼ではない。
記憶の底に沈めておいたあの日の彼は、もうどこにも居なかった。
それは一抹の寂しさを、しかし同時に。
新しい、少し大人びて、例えば視線がぐんと近づいて、声の低くなった彼に。
また、恋をした自分が居た。

ゆるゆると頬を撫でていた手を、唇へと滑らせる。
吐息を感じながら指でなぞれば、ふいに、腰に回っていた腕が解けた。
その腕はそのまま跡部の手を掴み、先ほどまで触れていた唇が弧を描いて。指先に、キスが落とされる。

「……起こしたか」

低く跡部が尋ねると、漸く開いた瞳がそれを否定する。
断続的に触れては離れる唇と舌がむず痒くて、止めさせる様に手を引いた。

「……アンタは?寝てないの」

寝起きの掠れ声は、普段のそれよりも低い。
どこかセクシャルなそれに、また新しい彼を……リョーマを、見つけた気がして。
そして、どこか退廃的なその表情さえも、愛しいと。思ってしまう自分が居る。

「人の枕じゃ眠れない、とか?」

一つ、息を吐いて。掴んだままだった跡部の手を開放し、体制を変える。
ヘッドボードに凭れている跡部の肩に、今し方枕から離れたばかりの頭を乗せて、リョーマは少し笑った。
神経質の気のある跡部だ。十二分に有り得ると思ったのだろう。
しかし跡部は、首を緩く振る事で否定する。

「あまり……眠りたくないと、思った」

跡部らしからぬ、曖昧なその言葉に滲んだ、本音。
リョーマはまた少し笑ってから、目前にある跡部の首へと、その唇を落とす。
擽ったいのか何なのか。跡部が身を離す様にすれば、追いかけて離さないのがリョーマの腕。
彼が眠っていたその時の様に、再び腕が、今度は背へと回された。

「っ……何だ」
「スキンシップ……かな。何となく、アンタに触ってたいから」

ストレートな物言いに面食らいながら、しかし悪くは無いと諦めて、跡部は体の力を抜いた。
そうしてそのまま、緩やかにリョーマの腕を解いて。今度は逆に、その背を抱き込む様に、腕を回す。
急激に縮まった身長差のせいで、今やすぐ眼前に、その後頭部がある。
そう思っていると、伝染したのだろうか。リョーマが振り返り、その唇が何かを言うより先に、触れ合わせていた。

「思えば……さ」

リョーマが口を開く。

「こんな風に……ゆっくりと、一緒に居た事。もしかしたら、中学の頃にすら、無かったかもしれないね」

その言葉を聞いて思い出すのは、あの頃の事。
酷く幼く思えるあの頃の自分達は、それでいても必死に、互いのその手を繋ぎ止めようとしていた。
そしてまた、幼くても良いはずでありながら、どこか達観して。
断ち切れない痛みを消し去る術すら知らないままに、その手を離した。

「俺もアンタも、テニスばっかしてたから。それが柵になってる、なんて。思いもしないまま」

夢のための道は、一つだと思っていた。
何かを……想いを犠牲にしてでも。
互いが大切だから、大切過ぎたから……背を向けるしか、無かったあの日。

「もし……」

言い掛けて、跡部は口を噤む。
過ぎてしまった事に、とやかく言う事は出来ない。少なくとも、あの頃の自分は、自分達は。それが最善だと思っていたし、今でもそれを、間違いだったとは言わない。

まだ、子どもだったから。
選択肢なんて、無かったのだから。

壁掛け時計は埃にまみれ、その針を止めていた。
身に付けていた腕時計は、シャワーを済ませた後に鞄へ。携帯も、同じく鞄の中に。

示す物が何も無いのなら、永遠を語る事さえ罪ではない気がして。
けれどきっと、もうじきこの部屋に射す金色の夜明けの太陽が。それを許さないだろう。
一生、なんて、夢の様な事は言わない。
ただもしも望み望まれるのならばもっと、一緒に居たい。ただそれだけだ。

抱き締める腕に、自然と力が入った。
リョーマは、その身を預けたまま。窓の外を見ていた。
続く言葉を知っていて。けれど、口にする事はしないまま。

けれど。

見送る事しか出来ない、それだけが唯一許された想いの糸だと。
その腕を引き寄せ、閉じ込めてしまえればと何度も何度も祈る様に乞いながら、それでも瞳を閉じたあの日。

今生の別れになるだろう、そうしなければならないと。
何もかもを振り切る様に、振り返る事を許さず寝室のドアを閉めた、あの、暑い夏の日の朝。

その日々を越えて……今。この手は、確かに繋がれている。

跡部が笑い、リョーマも笑う。
クスクスと小さく洩れる笑い声が、静寂を割り、そして。
窓の外、海が。金色の光を放ち始める。

「景吾」

その声で呼ばれる自身の名が、こんなにも胸を高鳴らせる。
視線を合わせた先の、今や精悍な男の魅力を湛える、しかし変わらない輝くアンバーの瞳。

それはどこか朝焼けの太陽にも似ていて。

「……おはよ」

あの日聞く事の叶わなかった言葉が、耳を柔らかく擽る。

「ああ。……おはよう」

再び掴まえたのなら、二度と離しはしない。
子どもだった頃の自分に叶わなかった我侭を、今の自分ならどう叶えられるのだろうか。

けれどこの手が繋がれている限り。
何度でも塗り替えて行ける。





寄りかかり合う事が弱さなら、その弱さごと抱えよう。
互いにしか見せない顔を晒し、怖い悲しい辛いと言って、助けを乞う腕を伸ばそう。
そこから救えるのは互いだけ。だから互いが唯一の絶対。
そんな甘い束縛を、解けない様に結び合う。

例えこの愛が罪と呼ばれても。
何だって犠牲に出来る。

だから二度と離さない。
だから二度と離さないで。

生まれたての太陽に照らされながら二人、繋いだ手に固く誓った。





END


(2008/12/25)