抜ける様な青空が広がっていた。
深い緑を湛えた様にも見える、凪いだ海も。この空との境界線さえ曖昧なまま、どこまでも続いている。
青々と重なり合う葉の合間から見える空は静かで、漂う雲もどこか頼りない様子で浮かんでいる。
時折吹く涼しい風かなければ、まるで時間が止まったかの様に感じただろう。
起き抜けの頭でそんな事を考えながら、リョーマは開きかけた瞳をゆっくりと閉じた。
聞こえるのは木々の静かなざわめきと、それよりも静かな波音。
カモメの鳴き声が混ざって、そして、遠くで低く鳴る船の汽笛。
穏やかとしか言い様の無いその空間で、リョーマは今一度、薄く瞳を開けた。
藤で編まれたデッキチェアは年季物だが、寝心地は格別だ。腰をかける度にギシリと嫌な音を立てるが、それ以外には申し分無い。
鼻を擽る柑橘の香りに空腹を誘われて、名残惜しいまどろみを振り切る様に、その体を起こした。
ハーフパンツから伸びた裸足の足が芝生に下りて、数時間ぶりの地面を喜ぶかの様に数度踏みしめる。
勢いを付けてデッキチェアから立ち上がった長身は、それでもその静かな空間を壊すには至らなかった。
欠伸をしながら首を鳴らし、リョーマは大きく伸びをした。
深く息を吸って吐けば、覚醒した瞳にその風景はよりクリアに映る。
夕飯は何にしようか。
昨夜作ったカレーがまだ残っているけれど、生憎日本米が底をついてしまった。
一番近い店には、タイ米は売っていても日本米は無かったはず。それで補おうにも、片道三十分。正直、近いとは言い難い。
ナンでもあれば良いが、生憎パンも食パンとフランスパンしか残っていない。
昼寝をしたのは間違いだったか。けれど毎日の習慣の様になってしまって、時間が来ると睡魔に抗えなくなってしまう。
仕方がない。今日はフランスパンに付けて食べるとして、明日は必ず買い物に行こう。油断をすると本気で餓死も免れない。
テラスから直接リビングへと入り、その足でキッチンへと向かい鍋を火にかける。
蓋を開けて、ドロドロに固まり今や固形物と化したカレーに眉を潜めながら、賞味期限ぎりぎりの牛乳を注いだ。
焦げ付かない様にと掻き混ぜながら、空いた右手でフランスパンを引き寄せる。こちらも賞味期限はぎりぎり、いや軽くオーバーしているかもしれない。
適度に煮立つまで、と鍋を放置して、その辺りにあったナイフでフランスパンをスライスする。
フルーツナイフでパンを切るのはなかなかに、そして何より若干硬くなりつつあったそれは苦難ではあったが、半ば千切る様にしてそれらを切り終えて、皿に積んだ。
煮え始めた鍋を再び掻き混ぜ始めた時、キッチンカウンターに置きっ放しにしてあった携帯が着信を告げる。
数コール間放置したが、鳴り止まないそれに溜息を吐いて、鍋の手は止めずに携帯に出た。
「Hello?……なんだ母さんか。え?あー今メシ作ってて。ん?カレーだけど。……俺にもそれくらい出来るって」
電話の向こうで小言を言う母親に苦笑しながら、火を止め、先ほどスライスしたフランスパンを三切れ鍋に放り込む。
肩と頬で携帯を器用に抑えながら、布巾で持ち手を押さえた鍋を持ち、リビングへと移動した。
古いブラウン管テレビの前に、菓子くずや雑誌の散らばったコーヒーテーブルがある。もう古くなった雑誌の一冊の上へ、鍋を置いた。
「んー、まあまあやってる。え?いいって親父煩いだけだし。かわらなくていいって。……ん。ん、分かってるから。うん、ちゃんと食べてるよ」
ちゃんと。その言葉が偽りであるか否かは、この鍋を目にした人それぞれによって変わるだろうが。
「うん、もうちょっとこっちに居るつもり……え?あぁ、分かったから。うん、ん。じゃね」
通話を切った携帯をソファの上に投げて、テレビをつける。
夕方のニュースは相変わらずつまらなくて、つけたばかりのテレビをまた消した。最近は、こんな事を繰り返しがちだ。
すでに原型を止めていない、流動食の様なカレーにパンを浸し、食べられるなら何でも良いとばかりに胃に入れる。
美味いとは言えないが、不味いわけでもない。自分に作れる料理なんて、基本的にそんなものだ。
母親には、それが読めていたのだろう。何だかんだと理由をつけては連絡を寄越し、きちんと食べているのか、病気はしていないか、と口煩い。そして、有り難いとも思う。
全てを置いたままこの地へ移ると連絡を入れたのは、発つ朝の事だった。
最初こそ驚いてはいたけれど、拍子抜けするほどあっさりと、了承を取れてしまった。寧ろ、分かっていた、と言わんばかりに。
お前の人生だから好きに生きれば良い、と豪快に笑った父と、体の心配ばかりする母と。
離れて暮らして久しいけれど、やはり両親はいつまでも両親、子どもはいつまでも子どもなのだと。何となく、そう思った。
簡単過ぎる夕食を終えて、鍋やナイフを食器洗い乾燥機に入れてしまう。これが無ければ今頃シンクは見るも無残な状態だっただろうが、辛うじて免れている。しかし結局洗い上がった食器を食器棚に片付けるのは面倒で、キッチンテーブルの上に積み上がるのだから同じだろうか。
ゴウン、と大きな音を立てて動き始めたそれを横目に手を洗って、リョーマは再びテラスに出た。
どこまでも追いかけて来るメディアの目を掻い潜り、幼い日を過ごしたこの場所へ。
ここを知っているのはごく僅かで、その誰もがこの事を外に漏らしたりなどしない人間だ。
しかしいずれは、知られる事になるのだろう。
けれど別に、もうどうでも良かった。一時期だけでも、煩い声から耳を塞ぎたかった。
テニスが出来なくなった自分は、“越前リョーマ”ではない。
ならば自分は何なのだろう……そう思った時、答えが出せないほどに。テニスと自分は一心同体だ。
他人から見た自分、自分で思う自分。そこには寸分の違いも無いというのに……なのに。
何かが違うと。違うのだと。……気持ち悪くてしょうがない。
試合に負けた。
たった一試合。けれどこれほどまでの惨敗は、過去には無かった。
自分のテニス、などというレベルではない。
―――体が思う様に動かない。息が苦しい。
コートに膝を付いた。
遠くでコールが聴こえる。
駆け寄ってくるトレーナー。ざわめく観客。
煩い。
―――だから全てから、耳を塞いだ。
原因など考えるまでもなく、またその事実がこの両足に枷を嵌めているかの様だった。
“こんな事”で。たかが“これくらいの事”で。
足元がガラガラと崩れて行く感覚。手を伸ばしても掴んでくれる手はなく、またそれを望んで伸ばしているという事実が自分を苦しめる。
障害にしかならない関係ならば、断つしかない。
頭では分かっているのに、どうして体も心も付いて来ないのか。
それは、確信してしまった心の声。
ただ傍に居たい、居て欲しいのだと……叶うはずのない夢を抱いて離さない。
無いから欲しいと望む。それはまるで、幼い子どもの様な我侭。
青空はすでに夕焼けへと姿を変え、テラス、そして続く庭をオレンジ色へと染め上げていた。
フェンスの向こうに広がる遠い海は黄金に煌き、永遠に終わる事のない満ち干を繰り返している。
再び定位置のデッキチェアへと身を沈めれば、斜光が目を焼く様で。手で覆っても遮り切る事の出来ないその光に、きつく目を閉じた。
結局自分は、一人では何も出来ない。
誰かに内側を見せる事、それが何よりも怖い臆病者なのに、それを覆い隠す強さを持ってはいない。
それは、これ以上ない矛盾。
だから中途半端に……人を傷付けるのだ。
夕暮れと共に近付く夜が、風を孕んで柑橘の木々をざわめかせる。
苦い思いに胸を掻き毟りたくなる様で。知らず握り締めていた掌に爪痕が残ろうとも、その力を緩める事は出来そうになかった。
そうすれば、零れないと信じているかの様に。
こみ上げて来る水分に、必死で抗おうとして。
―――泣き場所を捨てた自分は。泣く事を許されない。
そうやって自分を縛り付ける事で、たった一人、コートに立ち続けて来たのだから。
だからこそ。
その音が耳に届いた事に。
それが何の音なのか、気付いてしまった事に。
それほどに―――焦がれていた事に。
あぁ、どうしていつも。
いつもいつも。
覆っていた手を外せば、膜を張りぼんやりとする視界。
半ば沈み切った太陽、けれど未だ、名残の様に残るオレンジの光が。
浮かび上がらせたたった一人の人間を、映していた。
「リョーマ」
低い声が心地良く響く。
これ以上の音は、この世には存在しない。だって、何よりも求めている音なのだから。
彼の声が、自分の名を呼ぶ。これ以上の幸せはない。
だって、何よりも望み、乞い。
そして二度と、叶うはずのなかった願い。
リョーマが何かを言うより前に。そしてまた、跡部が二つ目の言葉を発するより前に。
勢いを付け過ぎたせいで大きく動いたデッキチェア。
取り落とした鞄。
二つの音が大きく鳴り、そして。
言葉にしようのない想いの重なりが今、ただただ抱き合う二人に溢れていた。
嗚咽を漏らすリョーマをその胸でしかと抱き締めながら、跡部自身も体が大きく震えているのを感じていた。
目頭が熱い。そう気付いた瞬間には、雫が頬を伝い始める。
どうして耐えて居られたのだろう。
この存在がない世界に、どうして生きて来られたのだろう。
一度ならず二度までも離した。どうしてどうしてどうして。
泣くほどに辛いのならば、手を伸ばせば良かったのだ。
それで何がどうなろうと、そんな事は後から考えれば良い。
欲しいんだ。必要なんだ。居なければ駄目なんだ。
だったら求めて何が悪い。
これほどまでに、愛おしいのだから。
抱き合いながらも伸ばした手は、お互いの利き手を結んで固く握られる。
二度と離さない。今度こそ。
そのためになら何だって出来る。してみせる。
そう、心に刻んで。
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(2008/12/19)
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