太陽の姿さえ隠してしまうほどの摩天楼は、それでいて下手な場所よりもよっぽど暑い。
アスファルトに蓄えられた熱が容赦なく上昇し、上からも下からも食らう熱射攻撃には、道行く人々皆が顔を歪めて汗を拭う。

そんな中、一人だけ体感温度が違うのかとさえ思えるほど、涼しげな目をした男が一人。
摩天楼のビル群の中でも、飛び抜けて大きなその一つの前で。
身に纏うのはシンプルなダークブラックのスーツ。
目を覆いたくなるほど強い太陽光を背景にして聳え立つそのビルを、仰ぎ見る。

涼しげなアイスブルーの瞳に、その実、太陽光にも負けない熱い想いを秘めて。





「お話があります」

紡いだ言葉に、彼の……跡部の父が、顔を上げた。書類の捲る指を止めて冷徹にさえ見える無表情のまま此方へ寄越された双眸は、誰に言われるまでもなく、自分のものとよく似ている。いや、自分のものが、彼によく似ているのだ。
自分が彼の息子である事を。その血を受け継いでいる事を、雄弁に語る眼差し。

「婚約を、破棄したいと思います」

はっきりと告げた言葉にさえ、父は表情を変えない。眉を寄せる事も、唇を歪める事もなく、ただ、此方を見ていた。

「……それで」

数秒の沈黙の後。返って来た台詞は予想と違ったものだった。
手元の書類をデスクへと置き、その上で指を組む。

「それで、お前はどうするつもりだ。婚約の破棄は、約束の不履行。即ち契約の不履行でもある。合併が既に済んでいる以上、今更お前の我侭を聞く事など出来ないと、分からないほど愚かではないだろう」

淡々と紡がれる言葉には抑揚が無い、だから余計に冷たく感じる。
感情を、感じさせない。理由を聞く事も、驚く事も、憤怒する事もせずに、ただ無表情のままの父が考えている事など、到底分かりそうになかった。

「イギリスへ、行きます」
「……何?」
「もう一度、イギリスの大学へ編入します。語学留学ではなく、今度は経営学を一から学び直し、一日も早くその椅子に座るのに相応しい人間になれる様」

父の眉が微かに動く。
跡部の言葉の真意を探る様な視線を、正面から見据えて受け止める。

「勉強をするのを止めるつもりは無い。目標を見据えての留学なら、将来的にも価値のある行為だろう。だが」

そこで父は言葉を切った。
視線を少し細め、間を置いて口を開いた。

「婚約破棄と留学は別問題だ。結婚を先延ばしにする事は可能だが、今更婚約破棄などと。……それによって生まれるリスクに、どう対処するつもりか聞かせて貰おうか」

たった数年の時間稼ぎが、その先の未来を覆す事に繋がるなどとは思っていない。
先方……今は跡部グループの傘下に入ったあの企業との契約を破棄する事が、どれほど父の顔に泥を塗る行為になるのかという事も、重々理解している。
だからこそ。

「俺は、その椅子を最終目標に据えている訳ではない」

淀む事無く、言い放った。
父の眉が、また少し動く。
そこから感情の変化は読み取れなかったが、探る様な視線を跳ね返す様、強く言葉を続ける。

「跡部グループをここまで大きくした貴方の手腕は、尊敬しているし敬服もしている。俺は貴方の息子として、この家を継ぐ者として生まれた事を誇りに思っている。けれど。……だからこそ、決められたレール上を走る事で得るその地位に、大人しく納まるつもりは無い」

そう、生きて来た。
そうさせたのは、父以外に他ならない。

「三年、時間を下さい。大学を卒業するまでの間に、成果を上げてみせます。婚約破棄で被るリスクなど、何でも無かったと笑い飛ばせるくらいの結果を、お見せします。それで駄目だと思ったのなら、いつでも。政略結婚でも、勘当でも。何でもして下さい」
「……大きく出るのは結構だが、お前を勘当する事でリスクの穴埋めが可能だとは思えないが?」
「穴埋めをするのは貴方ではなく、俺です。ご心配なく。どちらも不要な危惧だ」
「些か自信過剰じゃないのか。これは大きな博打になるぞ」
「……今回ばかりは、俺に賭けて下さい」

思えば、父の前でこれほど雄弁に言葉を紡いだ事があっただろうか。
真正面から向き合い、その双眸を見つめて、胸の内を語った事など……あっただろうか。
父は、父である前に経営者だった。尊敬している、と同時に恐れていた。あまりに強大な存在の前では、自分が無力で。
……けれどそれこそ、間違いだった。
父に逆らう事を。意見を述べる事をせずに来て。婚約者を紹介された時でさえ、ただ頷いただけだった。

―――父は、俺の話を聞かなかった訳ではない。俺が、話さなかっただけだ。

組んでいた指をゆっくりと解き、そのまま腕を組む仕草はどこか優雅にさえ見えた。
そして続いたのは溜息と……苦笑。

「何がお前を駆り立てているのか……などと、聞くのは恐らく無粋なのだろうな」

例え苦笑であっても、自分に向けられた笑顔など、見るのは何年ぶりだろう。
呆れている様な、諦めている様な。そんな溜息と共に、上へと引き上げられた唇を思わず凝視する。

「お前は昔から……それこそ幼い頃から、私の息子として。同時に、後継者として生きて来た。それこそ十二分にな。私の記憶の中で、お前が私に何かを強請った事など、あっただろうか?」
「そう、ですか?」
「文字通りの“良い子”として育って行くお前を見て、複雑な気分になったよ。……私とは、まるで似ていないからな」
「……どういう意味ですか」

父の視線が和らいだ。
冷淡な印象の瞳に、柔らかい色が灯る。

「私も若い頃には、随分無茶をした、という事だ。お前が言う様に、この会社を大きくするために……それは、綺麗な事ばかりをして来た訳じゃない」

初めて聞く父の話に、跡部は目を見開く。
初めて……本当に、初めてかもしれない。事務的な、仕事の絡んだ話や、家の話。思い出したかの様にされた、テニスの話……。そればかりだった。それしかなかった。
思えば、父とまともな会話を交わした事が、あったのだろうか。

跡部は、強張っていた肩の力が少しずつ抜けて行くのを感じていた。

「だから今、私はここに居られる。そして、私が作った土台にお前が立てる様……私は、足元を固める必要があった」

そして、その言葉に。
跡部は父が、“父”だという事に。気付かされた。

レールは、敷かれていたんじゃない。敷いてくれていたのだという事。
跡部が歩き易い様、進み易い様。将来、この立場に立つその日に、確固とした地盤と後ろ盾が、作り上げられている様に。

跡部が、何も言わなかったから。
父は、自分がこうであれば、と思う道を、示してくれていたのか。

そこで父は言葉を切った。
色を変えた視線は元の様、それでいて少し細められた瞳には、笑みが残っている。

まるで、初めての息子の反抗を、楽しむかの様に。

「お前は、向こうでどうするつもりだ。編入し直すのは構わないが、大学に通いながら仕事をこなすのは、口で言うほど簡単なものじゃない」
「……それくらい出来なければ、その椅子に座る資格などないと思っていますので」

跡部の言葉に、父は眉を上げる。
そして今度は本当に。唇に笑みが刻まれた。

「ならば。……言葉だけじゃないという事を、証明してみせろ、景吾」





気がつけば既に、太陽光は赤へと色を変えていた。
夕刻を示す空色を仰いで、跡部はビルを後にした。

地下駐車場に停めていた車に乗り込み、深い息を吐く。
想定していたのとは全く違う。けれどこれ以上なくあっさりと、話が纏まった。
これで良いのだろうかと、思わなくもない。父が父として、自分に割いていてくれた心を、結果的には放棄する形になってしまったのだから。
けれど。だからこそ。必ず……やり遂げる。
一度決めた事を翻すのは、誰よりも自分自身が許さない。

キイを差込み、エンジンをかける。
あの夜とは全く違う心持でハンドルを握った跡部は、十四時間の時差の先、まだ真夜中のそこに、思いを馳せる。

―――今、どんな思いでそこに居る?

もう一度、この腕に抱ける時が来るのなら。
何でも出来る。本気で、そう思った。




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(2008/08/26)

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