来訪者を無視出来なかったのは、相手がその男だったからだろう。
ブラインドを閉めたままの薄暗い部屋には、時計が無ければ、朝なのか昼なのか夜なのかさえ分からない。昼夜の無い時間の過ごし方には、そんなものは不要だと。見上げる事の少ない壁掛け時計が指していたのは、昼の二時。

「……何の用だ」

勝手に入れ、とオートロックを解除した部屋、ソファに座った跡部は、此方を見下ろす手塚にそう吐き出した。
ローテーブルの上にはワインの瓶。灰皿に盛られた煙草の吸殻は、ガラスの上に零れている。

「感心しないな」

開口一番にそう呟いて、眉を顰め溜息を吐いた。

「……お前には関係ねぇだろ」

笑って言って、煙を吐き出す。周囲に色濃く広がる鼻を突く独特の臭いに、眉間に寄った皺が増える。
―――そんな目で、見るなよ。
逃れる様に、けれどそうと悟られたくはなくて、出来るだけ自然に視線を伏せた。

大学の夏休みは長い。今は勉強をする気にも、テニスをする気にもなれなかった。
うだる様な熱から身を隠して、冷房の効いた部屋に引き篭もる。父からの呼び出しもない。しなければならない事など、何もない。

あの日以来、ラケットを握る事はなかった。
必然的に思い出してしまう。テニスが無かったのなら、出会う事さえなかっただろう相手を。
視界にさえ入れたくはないとばかりに部屋の隅へと追い遣ったテニスバッグには、すでに埃が積もっているだろう。そうしてそのまま、朽ちてしまえば良いのだ。

この想いも。
何もかも。

あの日から、数週間が経過していた。
日毎外出を億劫に感じる様になり、テスト期間を終えて完全に夏休みに入ってからと言うもの、必要最低限は、何をするでもなくこの部屋で過ごす。
過去に何度も観た古いDVDを引っ張り出してみたり、蔵書を読み荒らしてみたり。
何かをしていなければ、ふいに、どんな瞬間にでも彼を……あの日を、あの日々を。思い出してしまう様で。跡部は、足掻く様に毎日を過ごす。
大学の知人や、旧友達から誘いが掛かる事もあった。だが、メールも電話も無視を決め込んでいる内に、それらもぱたりと止んだ。大方、海外旅行に出ているやら、短期留学しているやら。好き勝手な噂をしているだろうし、そんなものは放っておけば良い。
ただ今は、外に出たくなかった。
出れば……目にする事になってしまう。
雑誌の紙面に。スポーツ飲料のCMに。他にも沢山のメディアで、彼を。
そして。電車の吊り広告や、サラリーマンの読むスポーツ新聞の紙面の、ほんの小さなスペースであっても。
……彼の名を、写真を。目敏く見つけてしまう自分を知っているから。

「飯は、食っているのか」

手塚の落ち着いたその声にさえ、今は無性に苛立ちを覚えて。
新しく火を点けた煙草を咥え、不味いひと口目と共に吐き出す様に答える。

「さあ、どうだったかな。動かねぇんだから、腹も減らねぇだろ」

ガラス越しの瞳は、動かない。
それが自分自身の滑稽さを余計に露呈する様で、跡部はただ苛々とフィルターを噛むしかなかった。

ふいに、手塚が溜息を吐く。

「どうしてお前達は……」

その響きに滲んだ焦燥感に顔を上げれば、憤りさえ浮かべた表情が、そこにあった。
手塚は、持っていた鞄の中から一冊の週刊誌を取り出す。普段なら目にも止めない様な、芸能人や著名人の揚げ足を取る下世話な見出しが並ぶ中、どうしても一番に目に飛び込んで来てしまう、一人の男の名前。

―――越前リョーマ 格下の相手に完敗!引退も示唆!?

跡部は、咥えていた煙草も忘れて眉間に皺を寄せた。
該当のページを開いて跡部に突きつけながら、手塚が口を開く。

「テレビも、新聞も。何も見てはいないのか。俺達の周りでも大騒ぎになっている」

そこには、トレードマークの帽子を被ったリョーマが、見ている此方が痛々しく思うほどに歯を食い縛り、コートに膝を付いている写真があった。
世界ランキングでも大きく離れた格下の相手に、ワンセットも取れず完敗している姿だった。

全米オープン覇者、まさかの完敗。
言葉無くコートを去った後、取材は拒否。その後、予定されていた試合は全て欠場。
怪我の心配もされているが、トレーナー達も口を噤んでいる。

様々な憶測が書き連ねられていたが、そんなものは目に入って来なかった。
あまりに……あまりに苦しそうなその表情が。全てを物語っていたのだから。

雑誌を掴んだ手に力が篭る。
嫌な音を立てて歪んだそれを見ながら、手塚は、眉間の皺を深くした。

「跡部……」
「分かってる!」

跡部が声を荒げ、立ち上がる。

「テメェに……誰かに!何を言われなくても分かってる!」
「ならば何故打開しようとしない」
「出来るモンならしてるさ、とっくにな!だが俺は……俺達は!」

ひしゃげた雑誌に視線をやり、振り切る様に顔を上げる。
目の前が真っ赤になる様だ。熱い。これは怒りか、何に対して、誰に対して。

―――自分自身に対して。

「なら、どうすれば良いって言うんだ……?全てを放り投げてあいつの所へ行けるなら、俺だってとっくにそうしてる!だがそれが出来ないから俺なんだろ!俺は跡部景吾だ!あいつに出会うよりずっと前から……生まれた時からずっと!」

そしてそれが、リョーマにとっても同じなのだと。跡部は十二分に理解していた。
跡部が、この世に生を受けた瞬間から背負った“跡部”の名と同じくして。
リョーマもまた、この世に生を受けたその瞬間から、いや、もっとずっと前から。“テニス”という生涯をかけるべくものに出会っていたのだから。
跡部からその名を取る事は出来ない。リョーマからテニスを取る事も出来ない。
何故ならそれは、互いにとって全てと言っても過言でないほどのものだから。
そして、今やそれは一個の存在だけでは成り立たなくなり、沢山の人間を巻き込んだ要素そのものになっているのだから。

痛烈な言葉を叫ぶ様に吐いて、跡部は拳を握り締める。
湧き上がって来るのは怒り、熱い、痛いほどの怒り。
どうしようもない、どうしようもないんだ、俺には何も出来ない、何も出来ない。

―――あいつが苦しんでいても、もう何も出来ないんだ。

瞳を伏せ、どうしようもない痛みに耐える跡部は、小刻みに震えていた。
試合以外の場で初めて見る、跡部の剥き出しの感情。
この男がどれだけリョーマを想っているのか。それを肌で感じて、だからこそ手塚は、次の行動に出た。

「っ……!」

胸倉を掴み上げ、利き手の拳が頬に。
ガッ!と鈍い音がして、跡部は辛うじて踏み止まる。

「っ、何す……っ!!」
「それだけ分かっていて、何故それを越前に言わない!!」

唇の端が切れ、血が滲む。
跡部の頬と同じく、手塚の拳もまた、赤く腫れ始めていた。

「お前も、越前も。このままでは共倒れだろう!どうして二人で何とかしようとしない?どうしてその思いを、伝えようとしない!」

よく通る手塚の声が、静かだった部屋に響く。

「確かにこれは、俺が口を挟める問題でもなければ、お前達がどう足掻こうと、今更変えられない事なのかもしれない。けれどお前達は今まで、相手が強大だからと言って何もせずに居たか?諦めるなどと、そんな事を一度でもした事があったか!」

手塚が話しているのは、テニスの事だった。
中学一年でイギリスから帰国し、氷帝に入ってから。強者に挑み、叩きのめし、頂点に君臨する者は俺なのだと絶対の勇気と誇り、己への自信と信念を持って、上へ上へと上って来た。
負けた日もあった、打ちのめされた日もあった。だが。
諦めた事は、一度もなかった。
そしてそれは、リョーマも。
あの夏の日。全国大会準々決勝のシングルス1。自分達が、初めてまともに向かい合った、あの日の。
あの日のリョーマは、そして、その後もずっとずっと、彼は。

「……一人で駄目ならば、二人でやれば良い。お前達にならそれが可能だと……俺は、思っていたのだが」

手塚は、腫れ出した左手を横目に見てから、床に置いた鞄を拾い上げた。

「殴った事は、謝らせて貰う。ただ、俺の知っているお前達は、今のお前達ではないと……それが言いたかっただけだ。……失礼する」

手塚がリビングを横切り、玄関のドアを開けて姿を消しても。跡部は、動けないでいた。
じわじわと痛みと熱を持って来る頬や唇を感じていても、それよりももっと……息が、苦しくて。

―――どうしてその思いを、伝えようとしない!

その言葉が、ぐるぐると脳内を回る。

伝える……伝える?
この、未練がましくてどうしようもない、この想いをか?

数週間前の、あの日に。
三年前に言えなかった言葉を痛みを滲ませながら口にして、体を離したリョーマに背を向けた、俺が?
そう、あの時ですら、何も言えなかった……俺が。

そしてそれは、三年前のあの日も同じ。

―――ああ、そうか。
―――俺はあの日からずっと、逃げ続けていたのか。

その時胸に去来した想いは、跡部の中にすとんと納まった。
まるで、その事実を跡部が受け入れる瞬間を、待っていたかの様に。

顔を上げた跡部は、大きく一つ、息を吐いた。
そして、思う。

―――もう、逃げるのはやめだ。






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(2008/08/21)

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