キャラメリゼ
覚醒した瞬間に鼻が捉えた匂いが、酷く空腹に染みた。 続いて聞こえる妙な音が、耳を刺激する。 数度瞬いて体を起こせば、丸々人間一人分空いたスペースが横に。 何事だ。と、まず思った。 時計を見れば午前7時、隣に寝ていたはずの人間が起き出すには、少し早過ぎる時間。 昨夜を思い浮かべれば、就寝したのは恐らく、深夜と呼ぶより早朝と呼ぶべき時間帯だったはず。 元来寝汚い彼が、睡眠時間3時間そこらで、目覚める訳が無いのだ。 けれど隣には空きスペースが。 まさか転げ落ちた訳では、とベッドの下を覗くが、当然ながらそこに人間が落ちている事は無かった。 「……あ?」 自然と漏れた声を自覚して、彼、跡部は眉を寄せる。 今正に、彼が目覚める原因にもなった芳香を判別したのだ。 そして、その香りを好むであろう人間が、何処で何をしているのか、も。 「あ、オハヨー」 「…オハヨー、じゃねぇだろ」 広いリビングのキッチン、設えられたカウンターの上。 熱心に“何か”を捏ね繰り回している姿が一つ。 「何してんだ、んな朝っぱらから」 「見て分かんないワケ?料理してんじゃん」 至極真面目に答えた彼、リョーマは、大きめのゴムベラでボールの中身を掻き回す。 中で不思議な色…黄色であったり茶色であったり白であったり…の、生地と見受けられる物が嫌な音を立てている。 寝起きの頭には、結構衝撃的な場面に遭遇して、跡部は溜息を吐いた。 まず、リョーマの手の中にあるボールもゴムベラも、決してその様な。 ……食パンをぐちゃぐちゃに掻き回すために存在している物ではない。 ついでに、黄色の原因である卵も、ゴムベラで掻き混ぜたのでは、白身と黄身が混ざり合う事など…根気良く混ぜ続けない限り、不可能だ。 「何で起きて来てんの?出来たら起こすつもりだったのに」 まだ寝てていいよー、なんて。 夜を共に過ごした相手に言われて、通常なら嬉しかったりする台詞も、今はプラスの感情など呼び起こさない。 「お前こそまだ寝てろ。それと、これ以上キッチンを汚すな……っ!」 しっかり磨きこまれた銀色のシンクや、お気に入りのカウンターテーブルに飛び散る、見るも無残な“料理”の残骸。 リョーマの着ている紺色のTシャツにも、しっかりと斑点が付いている。 「後でちゃんと片付けるしイイじゃん。心の狭い人間だね、アンタ」 呆れているのはこちらの方なのに、逆に溜息を吐かれて、跡部の眉が跳ね上がる。 まず、心の狭いだの何だの、言われる理由が分からない。 間違いなく此処は跡部の部屋であって、跡部のキッチンであって、跡部のカウンターテーブルであって、跡部のボールとゴムベラなのだ。 勝手に使うな、などとは勿論言わない。そこが問題なのでは無い。 問題は、ボールの中で捏ね繰り回されている、食パンの細切れと卵と、残り、茶色の液体から生成されるもの。 「……まさかとは思うが、それは…」 「フレンチトーストじゃん。見て分かんない?」 「分かるか普通!?」 そう、フレンチトースト。 甘いものをそこまで得意としない跡部には、朝食のテーブルに並ぶ事自体が有り得ない食物だ。 確か、グラニュー糖を入れた溶き卵に切った食パンを浸し、バターで焼いた一品、だったはず。 先ほどから漂っていた芳香は、熱したフライパンの上で蕩けるバターだったのだ。 ……すでに殆どが蒸発し、焦げ付いている様だが。 「お前殆ど寝てないんだろ?何で急にフレンチトーストなんだよ」 「食べたくなった」 ごくストレートな、それこそ予想通りの返答に、予想通りながらも呆れる。 何かと、欲求を我慢したりしないこの少年は、即断即決、思い立ったら即行動派なのだ。 かと言って、殆どキッチンになど立つ事の無いだろうリョーマが、簡単とは言え、フレンチトーストの作り方を知っているとは。 ……色んな意味で間違っている点もあるが。 「んで、その茶色のヤツは」 「キャラメルソース、とラム酒」 跡部は今度こそ天を仰いだ。 確かに、料理の香り付けやナイトキャップ用として、ラム酒は常備してある。 キャラメルソースはリョーマが飲むキャラメルマキアート用に。 しかしそれらを、ともかく尋常じゃない量消費して、ボールの中身はすでに異世界だ。 「ラム酒入れ過ぎたかな…」 「ラム酒は香り付け用だ、びちゃびちゃになるまで入れる奴があるか?」 「え、そーなの?」 「そうなんだよ!」 きょとんと、本当にきょとんとした表情でリョーマが呟き、跡部は溜息。 とにかく、と、渋るリョーマからボールとゴムベラを奪い取り、焦げ付いて黒煙を発しているフライパンごと、水を張ったシンクに突っ込んだ。 隣で勿体無い、やら、これだから金持ちは、やら散々ブツクサ言っているリョーマも、今は放置するより他無い。 バカ景吾、もう別れる、と言われた際には、流石にスポンジを持つ手を止めたが。 十数分後、跡部作の本物…まともなフレンチトーストが、湯気を立てながらダイニングテーブルに並んだ。 それに山の様にキャラメルソースをかけ、丸々二枚を綺麗に完食したリョーマを尻目に。 甘い匂いにムカムカする胃を押さえ、ブラックコーヒーを流し込む跡部の姿が。 二度とリョーマをキッチンには立たせない。 そう誓った、跡部だった。 END (2006/01/06) リョーマは料理出来ないだろうなぁ、と。その癖やりたがりの負けず嫌いなんだ。 跡部は良いトコのぼんぼんなんで、大概何でも出来る人だろうと思うのです。 つか、料理出来て貰わないと困るんだよ、私とリョーマが(笑) 公式設定ではアレなんですが、うちの跡部は甘いものが苦手です。 うーん、ちょっと違うか。甘過ぎるものが、苦手なのです。 BACK