07.この手を取って
声が上擦らなかったのがせめてもの救いだった。
今も……ただこうしているだけで、一秒毎に増えていく様だ。
……所謂、恋心、が。
「……で、何の用?」
いつもあったはずの白いキャップのツバが無い。ただそれだけでモロに受ける視線の強さに思わず……目を細める。
前に見たものと同じ銘柄の缶ジュースを傾けて、越前は首を傾げた。
部活を終えて出て来た所を捕まえようと、校門前で暫く待った。他校生が珍しいのだろう、同じく部活を終えた生徒達がチラチラと好奇の視線を寄越すのを肌で感じながら、居心地の悪さに心持タイを緩める。
例えばこうして……帰宅時に待ち伏せめいた事をしなければ会う機会の無いほど、接点の無い相手。
たった数度。偶然に偶然が重なってプライベートでの会話を交わしはしたが、それはあくまでテニスの延長線上にあるもので。あの時越前が腹を減らしていなければ……あの場で眠り込んだりしなければ……もしかしたら、この想いを自覚する事すらなかったかもしれない。
しかしこの偶然は成しえてしまった過去なのだから、この際そんな事はどうでも良い。
その存在を想うだけで顔を歪めてしまうほどの胸の痛みが、世間一般で言う所の“恋”なのだと……気付いてしまったのだから。
そうこうしている内に、感じる視線に色の違うものが混じり始めた。察するに、それは自分が何者なのかを知る者の視線……男子テニス部員だろう。
つまりは部活の終了を意味するのだと。ヒソヒソと会話を交わす男子生徒達を横目に、そう思った。
「あれ?跡部さんじゃないッスか」
ふいに呼ばれた名に視線を向ければ、そこには見知った人間が一人。
「ウチに何か用ッスか?部活ならもう終わりましたけど。あ、もしかして偵察ッスか」
「いや……そうじゃない」
「またまたぁ、次の新人戦のために、一年の偵察でしょ?一年っつーか……越前の」
サラリと言われた名に、一瞬身を硬くする。それを肯定と取ったのか、その人間……桃城は人の悪そうな笑みを浮かべた。
「跡部さんも大変ッスねぇ。氷帝って部員多いのに、引退した三年が情報収集するんスか。ってゆーか、もしかして個人的な偵察だったり?」
「……どういう意味だ」
そのセリフの言外に含まれる別の意図に気付いて、思わず尋ねてしまう。
これこそ誘導尋問にも似た会話の応酬。曲者とはよく言ったものだ、と。恐らくは何かを知っているらしい桃城の術中にまんまと嵌る様で癪だが、言ってしまった後では訂正も出来ない。……さすがは忍足に勝った男だ、と、変な所で感心する。
「越前に聞いたんですけど。試合、したんッスよねぇ?」
「試合と言うほどのものじゃねぇ。それに途中で終わってる」
「じゃあ今日はその続きの約束を取り付けに来たとか?まぁ何にせよ……そう簡単にうちのルーキーの情報を持って行かれる訳には、いかねーな、いかねーよ」
そうは問屋が卸さないッスよ!……と、一人で頷いている桃城は、得意気に笑っている。
通常、正規の練習試合、公式試合以外は全て野試合とされ、他校同士の勝手な試合は禁じられているのが一般だ。それを完全に守っている者は多くは無いだろうが、情報が漏れるのを拒んで、青学でも、そして氷帝でも一応の規則として定められている。
自分も越前に言った事ではあるが……情報が流出すればするほど、不利になるのは当然で。部長の身で堂々と破る訳にも行かず、初めは越前の挑発を受け流した。不本意だが……引退が決まった身だったからこそ、二度目はそれを受けた。
強い相手には興味が沸く。誰であれ、ボールを追い、それなりの技量を身につけているのなら……当然の心理だ。
越前も、そして自分も。
「手塚部長が居ない今、シングルス選手の情報漏れなんかしてらんないッスからねぇ。生意気なヤツだけど、越前は今や青学の要ッスから。そう易々と教えられませんよ!」
さあ諦めて帰れ、とでも言いたいかの様にして、桃城は言い放った。
言っている事は正当で当然の事なのだが、ここで引いて帰る訳にも行かない。
「悪いが、越前は待たせて貰う。それに今日は、約束を取り付けに来た訳じゃねぇ」
「まーたまた。じゃあ何の用なんスか」
「お前に話す義理は無いな」
「青学レギュラー代表として、聞かせて貰いますよ」
何が代表だ、と溜息を吐くが、桃城は引かない。
かと言って事情を説明する気はサラサラ無い。願わくば、一刻も早く越前が―――。
「……アンタ達、そこで何してんの?」
丁度良いタイミングで飛び込んで来たのは、あの時……初めて会った時と同じ、アルトボイス。
過去四度の記憶には無い、白いシャツと黒いスラックスの出立ちで、越前が立っていた。
視線が合った途端、感じていた苛立ちも何もかもが吹っ飛んだかの様に一瞬思考が停止して、思わず息を詰める。
「跡部さんがお前に用だとよ。でもなぁ越前、野試合は部則違反だぜ。許す訳にはいかねーな、いかねーよ」
桃城が横で何か言ってはいたが、残念ながら耳には入って来なかった。
越前はまっすぐ此方を見ていた。射抜く様な強い眼差しは変わらない。不思議な色を、していた。
「ねぇ」
自分に話しかけられているのだと、気付くのが少し遅れた。
「ねぇ跡部サン?」
「……あぁ?」
「試合、しに来たの?」
「いや、そうじゃねぇ」
「ふうん?じゃあイイじゃん。試合じゃなかったらイイんでしょ?桃先輩」
「あ?あぁ……けどなぁ越前、」
「じゃ、そーいう訳だから。あ、今日は送ってくれなくてイイッスよ。さよーなら」
桃城に軽く手を振って、越前は歩き出した。
促す様な視線を感じて、言葉は発さないままにその背を追う。
だんだん遠ざかって行く後ろでは桃城が未だに何か喚いては居たが……追っては来ないだろう。
「どこへ行く」
「どっか座れるトコ。あんな目立つ場所じゃ、アンタも嫌でしょ」
低い位置の横顔は変わらず、ただいつもと違うのは、トレードマークと呼べるだろうキャップを被っていない所。
ツバに隠されていたはずの瞳が露で、夕日が反射する光彩は関東大会初戦の夕暮れと同じなのに、どこか違う印象を受ける。
会話も無く終止無言のまま。数分歩き続けて辿り着いたのは、小さな児童公園だった。
購入した缶ジュースを一気に呷り、越前はベンチに腰を下ろした。
座れば?と促されて隣に座るが……居心地の悪さに変わりは無い。
手の中には冷えたカフェオレがある。コレで良い?と差し出されたそのスチール缶は越前によって購入されたもので、この間の礼だと言われた。
「桃先輩はあんな事言ってたけど、別に俺、イイし。野試合でも何でも……アンタとの試合の続き、やりたいんだけど」
ただでさえ不本意な姿を晒してしまったのだから……と。どうやら先日の件が相当プライドに反したらしい。負けず嫌いは、テニスでもそれ以外でも発揮される様だ。
「あんな中途半端で終わらせるつもりはねーよ」
「なら……良いけど。で、何の用?」
最後の一口だったのか、缶を傾けた後、それを潰してゴミ箱に放り込んだ。
カン!と小気味の良い音がして、余計に緊張を煽られる。
―――緊張。そうか。緊張しているのか、俺は。
「まだ話は終わってない……って顔してんだけどアンタ。それともやっぱ、今からやる?」
必然的に低い目線の越前が、顔を覗き込む様にして視線を寄越す。
思わず凝視してしまうのは……唇で、先ほどまでジュースを飲んでいたからか、少し艶を放っていた。
「跡部サン?」
ヤバイと。頭の片隅で冷静に思う。
ただでさえ……あの夜、寝込みを襲う様な真似をしているのだ。曖昧なままの気持ちならいざ知らず、まさか今また、暴挙に出る訳にも行かない。
数十センチもない距離に居るだけで、こうも胸が痛いのだから。鼓動が聞こえやしないかと、心配になるほどに。
「用事無いんだったら、俺もう帰るけど」
いつまで経っても無い返事に痺れを切らしたのか、訝しげな表情を浮かべたまま、越前は立ち上がった。
普段の自分が今の自分を見たならば、同じ様に不思議に……いや、正直気味悪く思うかもしれない。それほどに今の自分は滑稽だ。
―――けれどそうも言っていられない。
「越前」
「……?」
立ったままの越前の背後で、夕日が今正に沈もうとしていた。
逆光に照らされて黒く歪むシルエット。彼の影が顔にかかって、眩しさはあまり無い。
けれど目を細めてしまうのは……どうしても抗えない、この痛みのせいか、それとも。
息を吸って。
もしも途中で止めたなら、きっと言えなくなってしまうだろう。
それならばただ、一息に言ってしまうまでだ。
……と、決心したというのに。
「俺は……お前、」
「ストップ!」
一瞬、何が起きたのか理解出来なかった。
そんな言葉と共にご丁寧に掌で塞がれてしまった口が、今や意味を成さなくなってしまった空気を孕んだまま、閉じる。
―――ストップ?
酷く簡単な英単語が、それでも何なのか分からなくて。唖然としたままの数秒が過ぎた。
「越ぜ、」
何事だと、尋ねようと口を開くが、そのまま……それこそ静止してしまった。
片手で口を塞ぎ、片手で鞄を持った越前の頬が……見間違えでなければ、だが、やけに赤い。
夕日のオレンジに紛れる様に。けれどそれは、明らかに頬の赤みで。
逆光で影になっているとは言え、隠す術を持たないその赤面に本人も気付いているのだろう。視線が逃げる様に伏せられ、唇を噛んでいる。
自分の頬の熱が上がるのを感じた。まるでつられる様に。
それは彼に……越前に触れられているからなのか。
それとも。……その表情の中に、見つけてしまったからなのか。
「言っとく、けど。俺の方が先だから。絶対。だって、アンタの試合の方が先だったし……!」
そうだった、負けず嫌いは―――テニスでもそれ以外でも発揮される。
「何でなのか、もう、訳ワカンナイんだけど。……でも何か、そう……っぽいし」
途切れ途切れの言葉の端に、焦りが滲んで言葉が切れる。
塞がれたままの口の中で、言いたい言葉が溜まって溢れ出しそうになっている。もう今更、皆まで言わずとも分かって……しまったけれど、それでも。
押さえつける左手を無理矢理引き剥がした。
少し痛かったのか一瞬眉を寄せる。その隙に、という訳でもないが、腕を引き寄せた。
腕の中に落ちて来るのは。……一回り小さなその体。
「言わせて、くれねぇのかよ」
「……俺の方が先だし」
「帰ろうとした癖に何だ」
「アンタ、今にも言い出しそうな顔してたから。こっちは準備出来てないって言うのに、卑怯じゃん」
「こういう事に卑怯も何もあるかよ」
「ある。……ってゆーか、もう……何なんだよっ」
こんな顔は、後にも先にもそうそうお目にかかれないだろう。
あの越前リョーマが。取り乱して、赤面して、仕舞いにはこの腕に抱かれている。
「……じゃあ、お前が言え」
「ヤダ。言ったじゃん、準備出来てないんだって」
「なら黙って聞いてろよ」
「負けたみたいで嫌なんだよソレって!」
「……意味が分からねぇ」
そう言って、腕の力を緩めた。
上目の視線とかち合って、どちらからとも無く、噴出した。
触れた先から想いが伝わるなら、それで良いかもしれない。
一番近くで見るその瞳は、今も尚、真っ直ぐに此方を向いている。
その色が、好きなのだと。
伝える時が来たのなら―――。
出会いは偶然、再会は必然。
偶然と必然と。その上に偶然が重なり、重なり、そして。
俺は君に恋をした。
END
(2006/10/03)
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