05.時間を止めて、未来に別れを 夜、という酷く曖昧な時間指定は、それだけで彼の人間性を思わせた。 それとも、それは譲歩なのか。明瞭な時間を決めない事で、来るか来ないかの選択権を与えるという。 もしそうなら、彼は思っている以上に大人なのかもしれない。 ……断る理由など、どこにも無いというのに。 部活が終わってからという言葉通り、見慣れたトリコロールカラーがコートに姿を現したのは、夕暮れが西の空に完全に沈んで間もない時間。 暇を持て余して、前に彼がしていたのと同じ場所で壁打ちをしていた時だった。 「……ホントに、来たんだ」 呟く様な声が、ボールのインパクト音と重なって聞こえた。ラケットの上で往なしたボールは滑り、空いた左手でそれを掴む。 首筋に浮かんだ汗を拭って見れば、二日前と全く変わらない姿がそこにあった。 「お前が言ったんじゃねーのか。明後日の夜、ストリートコートで、と」 「そうだけど……何となく、来ない様な気がしてた」 「何故」 「……何となく」 そう言って少し視線を伏せたリョーマを見ながら、跡部は一つ、息を吐いた。 きちんとナイター設備のされているコートとは言え、この場所に不慣れなのは確かだ。ナイターでテニスがしたければ自校の……或いは自宅のコートで事足りる。すぐ傍を走っている国道のせいか、引っ切り無しに車の音が聞こえて、やけに落ち着かない。 落ち着かないのは……場所のせい、だけだろうか。 リョーマはと言えば、着ていたジャージの上着を脱いで、大きなテニスバックからラケットを取り出していた。 「アップは、要らねぇ様だな」 「これでも一応、走って来たんで。アンタも大丈夫そうだね」 「まーな。お前が具体的な時間を言わないせいで、随分待たされた」 そう言って鼻で笑ってやれば、ほんの少し拗ねた様な顔を見せた。 だって、だとかしょーがないじゃん、だとか……言い訳めいた言葉は無視して、跡部はコートへと移動する。 観客席に居るリョーマへと、彼が以前そうした様にラケットを向けた。 「俺様を引退させたその実力、しっかり拝見させて貰うぜ」 跡部が口角を釣り上げてその瞳を見据えれば、リョーマもニヤリと笑った。 「後悔しないでよ」 ゲームカウント3-2。ワンゲームに時間がかかるのは、互いの実力が拮抗しているからだろうか。 ―――いや。 「次……行くよ」 トスを上げ、右手に持ち替えたラケットを振り下ろす。あの日見たものと同じ……ツイストサーブ。 けれど。 ―――バスッ! 中途半端な勢いのまま、ボールはネットに食い込んだ。そのままポトンとコートに落ちる。 小さくバウンドするボールを見つめてリョーマは舌打ちをした。 同時に跡部も舌打ちをする。 「おい越前」 「……何?」 「体調でも悪いのか。それとも、やる気が無いのか?」 リョーマは弾かれた様に顔を上げた。 その様子から読み取れるのはそのどちらでも無い様で、跡部は眉間に皺を寄せる。 「違う、そーじゃなくて」 「じゃあ何なんだ。言っておくが、俺様も暇じゃねぇんだ」 言ってから思った。滑稽なほど、自分は苛立っている。それもそのはず、あれほどまでに……そう、目を閉じてでも思い出せるほどに印象的だった存在と、初めて同じコートに立っている。 それなのに相手は絶不調。あの時の、ギラつく様な視線も無い。 拍子抜け、そして落胆。苛立つには十分過ぎる要素だ。 期待のし過ぎか。……いや、あの時の彼のプレイには、期待をせずには居られない強さがあった。 ならば何故。 「俺は本気を出すに値しないとでも言うのか?もしそうなら、舐められたモンだな」 「違っ……!」 そう叫びかけて、ふ……とリョーマの体から力が抜けた。 跡部が目を見開く瞬間、まるでスローモーションの様にその体がコートに崩れ落ちる。 「越前っ―――!?」 何事が起こったのか。考える前に体が動いていた。 ネットを飛び越えてその体を抱き起こせば、小さくうめいて身を捩る。 「おい、どうした!!」 「ぅ……」 「越前!?」 小さく口を開いては閉じて、を繰り返し、何かを伝えようとしている。 慌てて口元に耳を持って行けば、吐息に消えそうなほど小さな声で呟いた。 「……腹、減った……」 「スミマセン、でした」 エンジン音に掻き消されそうなほどの小声が、車内に響く。 辛うじてその音を拾った跡部は隣を横目で見て、苦笑した。 「別に、構わねーよ。シェフ達も喜んでたしな、食いっぷりが良い、と」 「でも……帰りも送って貰ってるし。やっぱ俺、歩いて帰、」 「今更何だ。遠慮なら倒れる前にしろよ」 「う……」 言葉を詰まらせたリョーマが黙り込んで、車内に静寂が戻って来る。 跡部としては些か信じ難い事実なのだが、「腹が減った」と訴えたきり動かなくなった所を見ると……どうやら本当に、空腹で意識を失っているらしい。 慌てて車を呼んで自宅に運び、跡部用に用意されていた夕食を与えた所、たちまち意識を取り戻し、掻き込む様な勢いでそれらを消化して行った。追加の料理が運ばれて来るたびに皿に手を伸ばし、跡部を唖然とさせたものだ。 そうしてやっと落ち着いた頃には、テニスをするには些か遅い時間となってしまっていた。 「……ねぇ、また今度」 「あ?」 「続きしよーよ。今度はちゃんと飯食ってからにするから」 本当に申し訳なく思っているのだろう、それとも自分を情けなく思っているのだろうか。少し眉を下げた顔に、いつもの勝ち気な表情はない。 それが何だか可笑しくて、跡部は笑った。 「な、何」 「お前、面白い奴だな」 「……それ、どういう意味?」 「そのままだ。お前みたいな奴は、見た事ねぇよ」 馬鹿にされていると思ったのか、リョーマは顔を歪めた。生来の負けず嫌いなのだろう、でも今日ばかりは反論も出来なくて、歯痒そうに眉根を寄せている。 「試合の事は気にするな。元々、部活の後にする事じゃねーな。ま、急ぐモンでもねぇし」 「でも」 「気にするなと言っている」 語尾を強めて些かハッキリと告げれば、それでも渋々と言う様に小さく頷いた。 それを横目で見て、跡部は視線を窓へと向ける。 見慣れない町並み。リョーマから告げられた住所へと向かって流れる窓越しの風景は、普段跡部が通るはずもない場所だ。 「手塚が九州へ行ったと聞いたが」 「……うん」 「あいつの事だ、万全……所か、更に力を増して帰って来そうだぜ。まぁそれまで、精々負けない様に頑張るんだな」 「……ん」 相槌が曖昧なのを訝しんで跡部が横を見遣ると、シートに体を預け、その瞳が閉じられていた。 「越前?」 「……」 返事はない。 まさかとは思ったが……いや、そのまさかなのだろう。 ―――とんだ大物ルーキーだぜ。 跡部は苦笑して、眠り込んでしまったらしいリョーマを見遣った。 小さな寝息を立てて眠る姿はそれこそ年相応で、とても跡部を、そしてあの場に居たプレーヤー達を震撼させる様な選手には見えない。 この小さな体のどこから、あんな力が出て来るのか。不思議に思いながらも、どこか納得していた。 身体能力でも、ポテンシャルでも。彼と対峙した選手達は皆、それ相応のものを持っていたはず。 けれど彼は、一度として負けなかった。……氷帝を沈めたのも、彼だ。 「厄介な奴が台頭して来たもんだぜ」 独り言ちて、苦笑した。 厄介なのは自分もそうか。新たなライバルの出現が、何よりもまず嬉しくてしょうがない。 引退した身である事を、この時初めて……悔やんだ。 カーブに差し掛かり、車が少し揺れた。 その瞬間にリョーマの体が大きく傾いで、跡部の方へと倒れかかってくる。 「っ……!」 その膝へと半ば寝転がる様にして倒れたリョーマは、少し寝息を乱しはしたが、起きる気配はない。 まさかの事態に思わず身を固める跡部だが、それも一瞬。 起こす事に罪悪感を覚えてしまうほど、その寝顔が安らかだったからか……居心地の悪さを感じはしたが、嫌悪感は抱かなかった。 ―――うちの連中に見られたら、何て言われるか分かったモンじゃないぜ。 跡部の膝を枕にして眠るリョーマ。その艶やかな髪が指先に触れて、思わずどきりとする。 ―――何故? コートで対峙した訳でも無い。そのプレイを間近に見ている訳でもない。 テニスが全く関わらない場で、どうして胸が……高鳴るのか。 思い出したのは、今日の約束を交わした日の晩。関東大会初戦の夜。 ベッドに入っても消えない、あの印象的な瞳と笑顔を思い出して、胸が高鳴った事。 あれはまるで……そう、まるで―――。 膝の上で寝息を立てるリョーマを見遣る。 子どもの様に無防備な……いや、実際の所子どもなのに変わりは無い。無防備なのもそのせいか。 けれど。 誘われる様にして、顔を近づけた。 吐息が頬に触れて、少し擽ったくて。 掠める様に触れた唇は、ほんのりと温かかった。こんなにも近くで (2006/10/01) BACK
君が笑うから