04.奪われる



全てを出し切って空になった体。
けれど胸の奥で燻る炎は消えない。





自宅に帰り着いてすぐにシャワーを浴びた。立っているのがやっとで、思わず壁に手を付いた。
今更の様に体が震える。
悔しさや……ましてや行き場の無い怒りではない。体が震えるのはきっと、あの試合が自分にとって二度は無いだろう……それこそ唯一無二のものであるから。
極限まで自分を解放する事、策略や計略を捨てた素の状態で、本能の赴くまま。
気持ちが良かった。最高に。

泣き崩れる後輩達を前に、涙を流す事は無かった。それは意地でも羞恥でも何でも無く、ただ、出なかった。
満足してしまったからか……いや、満足と言うのは違うのだろうか。よく分からない。
頭で理解出来るものでは、無かった。
ただその涙を見ていると、終わったという事実だけがジワジワと足元から上がって来る様だった。
何を差し置いても打ち込んできたものが。夏が。

シャワーブースを出て体を拭けば、呆けた様な顔をした自分が鏡に写り込んでいた。
輪郭をなぞってみてもそれは変わらなくて、一度引き締める様に、両手で強く頬を叩いた。
―――何をしている。

理性が狂っているのか。無理もないかもしれない、あの試合の後では。
あの試合……?どの試合だ。

あまりに鮮やかな、あの笑顔が。





敗戦イコール引退へ即座に繋がる跡部達三年生よりも寧ろ、残される後輩達の方が悔しがっている様だった。団体戦の勝敗を分けた補欠戦にて、全てを背負った日吉は尚の事。
負けた忍足と岳人、慈郎。勝った宍戸。彼らは寧ろ晴れやかな顔をしていた。
お疲れ様でした、有り難う御座いました。その言葉を言うはずのレギュラーの二年生三人は、いつまでも嗚咽を堪えるだけで。

「いつまでも泣いてんじゃねーよ」

そう言って肩を叩いた三年生の強さに、二年生は拳を握り締める事しか出来なかった。

現地解散の号令の後、跡部は一人、仲間達の渦から抜けた。
何か声をかけようとして、けれど躊躇している後輩達に苦笑を返して、その場から離れる様に歩を進める。
体が訴える疲労感を持て余してしまうのは、体内に燻る様に埋まったままの熱のせいだ。全てを放出する様な試合の後に、それを上回ろうとでも言うのか……酷く攻撃的な、それは彼の視線。
あの時体を駆け巡っていた感情は何なのか。
焦がれ続けた対戦相手、手塚との試合を終えて……始まったのは補欠試合。顔を上げる事さえも億劫なほどの疲労の中で、それでも見届けねばならないと無理矢理体を動かして。
そして―――。

夕暮れを迎えた試合会場は昼間の熱気を徐々に逃がしつつある様で、しかし絡みつく様な暑さは消えない。柔らかいオレンジの斜光に目を細めつつ、歩いた。
思えば……約三年間、目指す場所は常に頂上で、自分なら……自分達なら上り詰められると信じて止まなかった。
挫折を知ったのは去年の関東大会決勝、対立海戦。
あの時は今と違って、負けはしたものの全国大会への椅子は約束されていた。
だからだろうか。今年初戦で青学と当たる事を、あんなにも嬉しいと思ったのは。……負けても良い、などと。その様に甘んじた場所に身を置く事は、プライドを傷つける以外の何ものでもない。

感傷的になるのは引退を迎えてしまった事実からか。
誰が悪かった、劣った、という訳ではない。真剣勝負とはそういうものだ。後悔はない。
良い試合だったと……胸を張れるというのに。

暫く歩いていると、休憩所をかねているのだろう、藤棚に覆われた東屋が見えて来た。埃っぽい木の椅子と机があり、誰かが捨て忘れたのか、または置き去りにしたのか、ジュースの缶が一つ残されている。
水滴が付いている所を見ると、その場に置かれてまだあまり時間が経たないのか。
それともまだ―――

「ねぇ、アンタ」

―――持ち主が傍に居るのか。

「……それ、俺の」

そう呟くや否や、掬い取る様に缶を掴んだ。
中身がまだ残っているのだろう、聞こえるはずもないのに、水音がした気がした。

「アンタとは、よく会うね」

缶に口を付けたまま話す彼は、キャップのツバから瞳を覗かせた。
夕日のオレンジが柔らかいせいか、それとも何か……同情でもされていると言うのか。これで会うのは三度目だが、今までのどれとも違う瞳の色に、居心地の悪さを感じる。
先ほどまでギラつく様な色をしていたそれが、今は何故か酷く幼い。

「―――っねぇ、ちょっと、聞いてんの?」
「……あ?」
「口ばっか、って言ったの、訂正するって言ってんだけど」

そのセリフに、数日前のストリートテニスコートを思い出す。
―――あぁ、あれか。

「何だ。俺様の美技に酔ったか?」
「……訂正止めた」
「そう言うな。それに……」
「……?」
「テニスは、一人でするもんじゃねーだろ」

至高の対戦相手に恵まれてこそ、発揮出来る力がある。
どこまでやれるか。底はあるのか。
―――俺はどこまで行けるのか。

「アンタが、羨ましい」

ふいに……まるで独り言の様に呟かれた言葉に視線を上げた。
今度こそキャップに隠れてしまった瞳は見えなかったが、俯き加減の彼は掌を見つめていた。……震えている。

「部長を本気にさせられるコト。本気の部長と試合が出来るコト。……アンタ、強いね」

まぁ俺も負けるつもりは無いけど。
そう付け足しながら震える掌を隠す様にポケットに突っ込み、片手に握った缶を潰す。
アルミの軽い音が、静かな東屋に響いた。

その時に気付いた。あの試合……補欠試合の最中に感じていた、謂われも無い感情の正体。
あれは―――嫉妬だ。
この少年と対峙し、あまりに攻撃的、故に扇情的なプレイを、その身で受け止める日吉に。

部長という立場を忘れ。
この試合で付いてしまう、勝敗を忘れ。

「越前リョーマ」

名を呼べば、視線が合わせられる。

「……何」
「この間言っただろう。軽々しく他校生と試合出来るポジションじゃない、と」
「うん」
「……分かるか」
「何が」

不思議そうに見上げる視線が本当に……本当に幼くて、跡部は苦笑した。

「お前のおかげで、俺様はその地位を譲与させられたんだ」

一瞬の空白。
リョーマの瞳が弾かれた様に見開かれ、次の瞬間にニヤリと笑う。

「相手してくれんの?」
「誤解するなよ、これはボランティアじゃねぇ。他校生にその実力を見せる事が命取りになると……知らないとでも言うのか?」
「アンタ引退したんじゃないの」
「俺の下には二百人近い部員が居るんだ。全部筒抜けだぜ」
「それでも良いよ、俺は。……でもアンタは?」
「あん?」
「アンタ、何か得する訳?」

跡部は暫し黙って、リョーマの瞳を見つめた。
あの時……あの試合の時に映っていた色を。ギラギラと滾る様な色を、見据えられたなら。

胸が高鳴る。

「お前に、興味があるからな」

それこそ独り言の様に呟いて、跡部は踵を返す。
追いかけて来る視線にデジャヴを感じながら、あの時と同じ様に歩き出した。

「……跡部サン!」

呼び止める様に呼ばれた名に、視線を向ける。

「明後日の夜、空いてる?」
「夜?」
「部活の後になるけど。ストリートコートで、良い?」

斜光を逆光にして立つ姿は先ほどまでの幼さを忘れさせるほど。
鮮やかな笑顔。

「……分かった」

そう言って今一度、背を向けた。





バスローブに身を包んで、ベッドに横になる。すぐにでも眠ってしまえる様な疲労感に、身を任せようと。
―――けれど。

余韻に浸るなら、今日の試合じゃないのか。
何故目を閉じても思い出すのは……あの瞳なのか。

これでは、まるで―――。





その瞳に射抜かれたいと
そう思った
(2006/09/30) BACK