01.神さまの気まぐれ



その音がした方へと意識が向いてしまうのは、テニスプレーヤーとしての性というやつだろうか。
小気味の良いインパクト音、続くラリーは本気のものと言うよりは些かお遊び交じりのもの。
しかしそこに見え隠れする両者の確かな実力に、跡部は視線を上げた。

関東大会初戦を目前に控えたその日、跡部は氷帝の正レギュラーを率いて都心にある大型スポーツショップへと出向いた帰りだった。
氷帝学園中等部男子テニス部。スポーツの強豪として各界に名を連ねる氷帝だが、学園が誇る随一の部と言えばやはり男子テニス部だ。
歴代続く輝かしい歴史に加え、ここ数年で大幅に増築されたテニス部専用設備の豊富さ等からもそれは伺える。
部員数二百超えを誇る男子テニス部の中で、公式試合、しかも関東大会から出場する所謂“フルメンバー”である正レギュラーの地位を獲得し、また保守するのは並大抵の事ではない。
容赦無い弱肉強食の世界で、けれども選ばれた八人の選手は、部の中でも文字通り特別な存在だった。
今日スポーツショップへと出向いたのも、関東大会前の最終調整として、各自の使用するラケットやシューズのメンテナンスのため。
業者を学園に呼ぶ事も可能だったが、それぞれが贔屓にしているメーカーが違うため、毎年関東大会直前になれば、正レギュラーが揃ってメンテナンスに向かう姿が目撃されるという訳だ。

跡部が上げた視線の先には、続く並木道があった。青々と茂った緑が時折吹く風に揺れている。
その木々の間に、不自然に切り取られた空間がある。そこから伸びるのは灰色のコンクリートの階段で、それを登りきった先にあるものを、跡部は偶然にも知っていた。と言うより、一度来た事があったのだ。

ピタリと足を止めて、今一度視線をもう少し上へ……階段の上の方へと向ける。
自分の斜め後ろで同じく足を止めた樺地。しかしその後ろに続いていた人間は急な停止に対応し切れなかった様だった。

「っぶ!!」

押し潰された様な声を上げて見事にひっくり返ったのは向日岳人。

「っんだよ樺地!急に止まんな!!」
「……ウス」
「ウスじゃねーよ!畜生っ鼻打った……」

パンパンッと尻に付いた砂を叩きながら立ち上がった岳人は、樺地の背中に強かに打ちつけてしまった鼻を押さえ悪態を吐いている。

「いや岳人、今のんは樺地のせいやないで?急に止まったんは跡部が先や」

続いたセリフは忍足侑士のもので、それによって岳人の怒りは跡部へと向いた。

「おい跡部っ、お前何やって」
「前を見てなかったのはお前だろう岳人。……おい樺地」

岳人の批難を遮り、跡部は樺地を振り返る。

「寄って行く。ついて来い」
「ウス」

そう言って少し先の階段へと向ってしまった跡部の背中を見ながら、岳人は地団駄を踏んだ。

「って何だよアイツ!マジムカツク!!」
「跡部はいっつもあんなんや。っちゅーかここ……テニスコートがあるみたいやな」
「んだよ侑士もかよ。クソクソッ」

とは言うものの、岳人の興味もそちらへと向いた様だ。
最近は環境問題云々が大々的に叫ばれているためか、こうして緑が植えられ憩の場が設けられる場所も増えて来た。この階段の上にある、恐らくストリートテニスコートと呼ばれるそれは、その一環なのか。
しかし彼らは中学生。私立故に遠方から通っている学生も居るが、朝から晩までテニスと学業に追われている彼らにとって、普段通らない場所に何があるか、など知る由も無いのが普通で。
その上、この場所は本来なら氷帝生にはあまり縁の無い場所。この近くには青学や不動峰がある上、氷帝は設備が充実しているのでわざわざここまで足を伸ばす必要性など無い。
古豪強豪犇く関東地区とは言えど、ここは狭い東京。縄張りとまでは行かなくとも、各校の選手達が姿を現す場所などいつも決まっているものだ。

「なぁ侑士、どうするよ?」
「別に跡部に付き合う事もないんやろうけど……行ってみよか。自分らどうするん?」

忍足が声をかけたのは、同じく足を止めていた残りの二人、鳳と滝。

「ストリートコートですか。俺初めてですよ」
「じゃあ見学に行ってみる?どうせ今日は自主練だろうしね」

そうして結局残る四人全員が、コンクリートの階段を登る事にしたのだった。



ボールを打ち合っているのは一組の男女、どちらも見覚えのある顔だった。それもそのはず、つい最近顔を合わせたばかりだ。この場所をたまたま訪れたあの日に。
あの日はコート整備で部活が休み。偶にはどこかに足を伸ばしてみようかと、樺地を連れて帰路と逆方向へ向かってみれば、ここへ辿り着いた。見れば簡単な設備のテニスコート、そしてラフな格好でテニスを楽しむプレーヤーが十人弱。
数分と見るまでもなく格下である事が分かってしまい、跡部は小馬鹿にする様に笑った。
暇を持て余しているからか、挑発してやろうという気になって、その中に一人だけいた女子に声をかけてみた。思った通り威勢が良く強気な姿勢、こういう女は嫌いじゃない。
そして始まったのが、その女子とのデートをかけたダブルス戦だったのだ。
本気でその女子をどうしようと思っていた訳ではない。跡部が言葉を発すれば発するだけ声を荒げる様を、見ているのが面白かっただけで。
そうこうしている内にその場にいたプレーヤーは全員地に伏せた。跡部が手を出すまでもない、樺地一人で十分だった。
そして、今現在コートで打ち合っている二人の内の片方……桃城が現れたのだ。

「おい跡部、何かおもろいもんでもあるんか?」

数分遅れて階段を登って来た忍足がその背中に声をかけるが、跡部は一度視線を寄越した後、今一度背を向けてしまった。横顔が笑っている、いかにも楽しそうに。
忍足、そして岳人達が跡部の視線の先を追えば、そこには一組の男女。ラリーの音を聞いていれば分かるが、なかなかの腕前らしい。

「あれ?青学の桃城くんじゃないですか?」
「鳳知ってんのか?」
「俺と同じ二年ですからね。去年の新人戦で……直接試合はしてませんけど」
「って事は……レギュラーなんか?」
「今年の青学って確か地区予選優勝だったよねぇ。そこのレギュラー……か」

後ろで交わされる会話を聞くとも無しに聞きながら、跡部の視線はボールを、そして桃城の動きを追っていた。
腰を下ろしたコート上で、顔の真横を過ぎて行ったダンクスマッシュを思い出す。パワーで言えば樺地より下だが、あの男から感じるのはそれ以上の……ゲームメイクのセンスや技量、そして観察力と言った所だろうか。
少し目を細める。しかしインサイトを行使するまでもなく、あの時よりも遥かにスキルを上げているのが分かった。
まだまだ荒削りだ。けれどさぞかし磨き甲斐のある原石だろう。
―――厄介な敵になるかもしれねぇな。
そんな事を思いながら、一歩歩を進めた。

桃城は学生服スラックスに黄色いシャツ、相手の……名前は杏と言っただろうか?彼女はセーラー服のままだった。
杏は不動峰の生徒。そして男子テニス部部長である橘の妹だと最近知った。
最近と言うのは都大会の事で。都大会では、不動峰の前に辛酸を舐めた。東京地区代表として毎年No,1を張り続けている氷帝が、無名の初出場校にフルメンバーでは無かったとは言え負けたのだ。シングルス1の自分に順番が回る事なく、正レギュラーであった宍戸は、橘の前に崩れた。
試合直前に思い出した事だが、橘は去年まで九州二強と呼ばれて居た男だ。獅子楽中の橘と言えば全国でも有名なプレーヤー。学年が同じである上にシングルス選手である以上、髪型を変えただけでその名に気付かなかったのは迂闊だった。けれどまさかあの橘が、九州ではなく東京の、しかもこんな無名校で出場しているとは。
しまったと思った時には、試合は終わっていた。不動峰の橘があの橘だと気付いていれば、オーダーの変更も考慮しただろう。後にコンソレーションで勝ち上がったとは言え、あの場で一度敗北した事実は変わらない。
あの時の思わず眉を顰める様な展開を思い出し溜息を吐いた後、跡部は観覧席へと腰を下ろした。
余程ラリーに夢中になっているのか。二人が気付く様子は無い。

桃城はパワープレーヤーだ。その相手を務めるには、女の杏では荷が重い。桃城も多少の手加減はしているのだろうが、先ほどから杏の返す打球は少し浮き気味になっている。
そしてその球威に耐え切れず、杏の打球が大きなロブとなってネットを越えた。
―――来る。
跡部が今一度目を細めた時、桃城が強烈なダンクスマッシュを相手コートへと叩き付けた。

「どーん」

得意気な顔を見せる桃城がそう言い放ち、ラリーは終わりを迎えた。
元々勝負をしていた訳でもないのだろう。俗に言う“良い雰囲気”を醸し出している二人。
そして二人がようやく此方に気付いた。

「随分と楽しそーだな、桃城よ」

続けた言葉は、相手の苛立ちを煽る様にわざと選んだ言葉ばかりだった。
都大会での敗退が余程ストレスになっていたのだろうか。
いや、あの後当然の事ながらコンソレーションを勝ち上がり、関東大会への出場権は得ている。
けれど都大会第一シードで、自分が部長の代で、その様な失態……。
からかってやろうという気持ちと、その都大会で優勝したチームの選手はこんな所で遊んでいても平気なのかと。
―――これは、負け惜しみか。
ふと冷静になった頭の片隅でそう思った頃、会話を受け継いでいたのは忍足や岳人だった。
彼等は自分とは違う。フルメンバーでの出場は関東大会からで、彼等はまだ試合に出場してはいない。
負けたと報告した時も、驚きこそすれ「コンソレーションがある」と言って焦った様子さえも見せなかった。
それもそのはずだ。彼等はそのコンソレーションにすら出場しないのだから。
勿論コンソレーションは危なげなく通過した。念の為に本来ならシングルス2のジローを呼んでおいたのだ、それにここでもし……などと、考えるだけ無駄な思考だ。

「悪いけど俺達ダブルス専門」
「お前その娘とでも組んでやる?」

忍足の提案に桃城が頷いた。
相手は他校同士のミクスド、野試合と呼ぶほどでもない。忍足と岳人が本気を出す様な相手でもないだろう。
それに桃城はシングルスの選手。以前このコートで会った時は不動峰の神尾とダブルスを組んでいたが、あれは明らかにシングルス向きのプレイスタイルだった。
多少出来た所で、それが何になる。忍足と岳人は正レギュラーのダブルス1、彼らに敵うダブルスなど、全国区の中でも数は少ないだろう。
―――止めるまでもない、か。
あれから桃城がどこまで腕を上げたのか……そう、ジュニア選抜の千石を下すほどの腕を、今ここで見るのは悪くは無い。今日は樺地だけでなく鳳も居る。同じ二年として、その実力を見せておくのは得策かもしれない。
伺う様な視線を寄越した岳人に顎で許可を出し、すっとコートを見据えた。

その時だった。

「ねぇ、サボリっすか桃先輩?」

ハスキーなアルトボイス。
多少険悪な場の空気を全く介せず、響いたのは変声期前の少年の声。

白いキャップを目深に被った少年が、不遜な笑みを湛えて立っていた。





運命なんてそんな言葉
信じたことはないけれど
(2006/09/27) BACK