赤い知恵
「リンゴが禁断の果実っていうの、本当なのかな」
そんな呟きが聞こえたのは、秋の風を強く感じる様になって来た、空の高い九月の半ば。
その日は抜ける様に冴え渡った薄い青空が広がっていて。
時折吹く風が少し強い以外には気温も適温、とても過ごし易い気候だった。
少し前まで深い緑を茂らせ蝉の鳴き声で包まれていた中庭は静まり、今は少しずつ色を失いつつある緑が柔らかい色を醸し出している。もう少し寒くなれば、見事なグラデーションを見せるだろう。
テラスへと続く窓は開け放たれて、風で翻るクリーム色のカーテンが今も少し揺れていた。
リョーマが寝そべっているのは足の細いアンティークソファ。その顔とソファに挟まれて、彼が持参したテニス雑誌が窮屈そうにしている。写っているのは世界大会を制したシングルスプレーヤーだろうか。白いウエアと片方の腕以外が隠れている以上、それが誰なのかを判別するのは難しい。
寝そべったままリョーマが向けた視線の先には、ガラスのコーヒーテーブル。
そして藤で編まれた籠の中の、赤くよく熟れたリンゴの実。
「何だ、突然」
それらを上げた視線で確認した跡部は、今一度手元へと意識を戻す。
秋になれば学校行事が盛んになる。実質的に夏で部活を引退した跡部の、部長以外の仕事。生徒会長としての最後の仕事が待っている。
手元の資料をパラリと捲った。文化祭で模擬店を出したいと申請した全クラスの予算報告書の文字列を確認しながら、続くセリフを待つ。
「そんな話を思い出したから」
言ってみただけだ、と。特に会話を続けるでもなく、そう言った。
今秋の新物だとかいうそのリンゴは、今朝執事が運んで来たものだ。
カバー付きのフルーツナイフが添えられていて、まるでインテリアの一環の様に置かれたその果実が、食べ物であるという事を忘れさせない。
「食いたければ食っても良いぜ」
未だにそこから視線を剥がさないリョーマにそう声をかけるが、曖昧な返事が返って来ただけで、部屋にはまた沈黙が広がる。それはけして不快なものではなく、寧ろ二人にとっては自然とも言える時間の過ごし方ではあったのだが……ふと、跡部が口を開いた。
「イチジク……とかいう、説もあるな」
「?何が?」
「禁断の果実の事だ。地方によって、そういう伝説めいた話は変わって来るモンだろ」
「伝説って言うか……何だっけ、聖書の」
「旧約聖書の“善悪の知識の木の実”だろ。まぁ実際、リンゴだと明記されてた訳でもねぇし」
「……読んだワケ?」
「知識として知ってるだけだ」
ふうん、と呟いたリョーマが体を起こし、籠の中のリンゴを一つ、掴んだ。
テニスボールよりは明らかに大きいそれは彼の手には少し余る様で、放り投げる様に空中に浮いたリンゴは、軽やかな音を立ててその手の中に落ちて来た。幾度かトスを上げる様にそれを繰り返して、その度にパシリと軽い音がする。
「でも、リンゴって体に良いんでしょ」
「らしいな」
「風邪ひいたら、いっつも食わされるし」
「何だ?嫌いなのか?」
「んーん、好きだけど」
もう一度パシリと音を立ててその掌に収まったリンゴは、綺麗な赤色が下へ行くほど薄い黄緑で、きっとナイフを入れた瞬間に瑞々しい香りが広がるのだろう。
ふと気が向いた跡部は、資料のプリントを綺麗に揃えてファイルへと仕舞った。かけていた眼鏡を外して小さく息を吐くと、リョーマの寝そべるソファの横、一人掛け用ソファへと腰を下ろし直す。
「……終わった?」
「いや。別に今どうしても必要な仕事でもない。……剥いたら食うか」
「ん」
その返事を待って、跡部はリョーマの掌からリンゴを受け取った。
カバーから引き抜いたナイフを薄く食い込ませれば、その隙間から一気に漏れでる豊潤な香り。
先ほどリョーマが空にしてしまったケーキの皿の上へ、スルスルと落とされて行くリンゴの皮を、リョーマは興味深げに見ていた。
「器用だね、相変わらず」
「リンゴの皮くらい誰にでも剥けるだろ」
「……そうでも無いよ」
「……剥けねぇのか」
「リンゴは皮のままで食べれるから良いんだよ」
少し拗ねた様に言ったリョーマを横目で見ながら、跡部は唇の端を引き上げる。
その笑みが嫌味に見えたのだろうか、リョーマは不機嫌な顔をして、視線を逸らす様に皺になった雑誌へと向ける。
そこに写っていたのはやはり例のチャンピオンで、跡部がリンゴの皮の最後の一筋を切り離した時、そのページは捲られてしまったけれど。
「皮のままで食うなよ。農薬がかかってんだろ」
皿の上で八等分に切り分けられたリンゴは、とても綺麗な白色をしていた。
手とナイフを布巾で拭った跡部は、ケーキフォークにそれを一つ刺して、リョーマに差し出した。
「禁断の果実を喉に詰めて、アダム……つまり男には、喉仏が出来たらしいぜ。俺達の始祖の代からの古い付き合いって事になるな」
「アダム……か」
それを受け取って一口齧ったリョーマは、シャリシャリとした食感を確かめる様に何度も噛みながら、最後にゆっくり飲み込んだ。
「これ、美味い」
「そうか。全部食っていいぜ」
機嫌を直したのか微笑んだリョーマに言って、跡部は席を立つ。
そのまま窓際まで歩けば翻るカーテンに煽られて、少しだけ眉を顰めた。
「食べないの」
「ああ。……?」
返事をしてから、その声が存外近い場所から聞こえた気がした。
怪訝に思って反射的に視線を戻せば、目の前にはリョーマの顔。腕がぐいと引かれる。
その瞬間一際強く吹いた風がカーテンを大きく翻し、二人の体を包んだ。
その中で二人が感じたのは、秋風の香りと、リンゴの味。
「不意打ちは、成功?」
「……余計な知恵が付いたか?禁断の果実の効果かよ」
「リンゴのせいにすんなよ。イチジクかもしんないんでしょ」
「さぁ……何でもいいけどな」
「まぁね」
微笑みあって、そして。
秋風の様に爽やかで、けれど甘い、カルヴァドスの様なキスを。
END
(2006/09/18)
隣に置いてあったWJのとあるページに「美味なる果実をもぎとろう!!」という文字を見つけて思いついたもの。
私はリンゴが大好きですが、皮ごと食べると口が痛いのでちゃんと剥きますね、やっぱ。
リョーマがリンゴをポンポンしてたのは、兄貴がオレンジをポンポンしてた感じで。あのままガブリと(笑)
カルヴァドス=リンゴのブランデー。
BACK