それはまるで爆音の様だった。
思わず立ち上がろうとしたこの両足は、ビクリと震えたまま動かなかった。この場合は、頭より体の方が理性的だった、と言えるのだろう。
続けて流れ始める軽やかなマーチのメロディに、手拍子に。ここがどこで、何が行われているのかを瞬時に思い出す。
霞掛かっていた頭が、漸くクリアーになって。俺は遅ればせながら、周囲に合わせて手を打つ事にした。
まっさらでどこかサイズの合っていない様な。“着られている”と表現されるその制服の波が、列になって体育館から去って行く。どうせすぐに育つんだから、なんて言って大きめサイズを注文する母親が多いのは、どの年も変わらないのだろう。自分の母親もそうだった、と。今はサイズ通り、寧ろ少し小さく感じる学生服を見下ろしては思う。
確か入場時には緊張を保っていたはずの面持ちも、一時間以上が経った今ではだれてしまっている。目を瞬いている者もいる。当然だろう、ここにもこうして、爆睡していた人間がいるのだから。
大所帯の男子テニス部は、その分行事事の準備に借り出される頻度が高い。
新入生達から保護者、来賓に教師陣、それから在校生。数え切れないほどに並んだパイプ椅子は、全て自分達が朝も早くから並べたものだ。
体育館の床に敷かれたシートも、飾り付けられたリボンも、ペーパーフラワーも。
舞台上に飾られた大判のフラワーアレンジメントだけは、全ての準備を終えた後、業者が運び込んだものだけれど。
あと一時間もすれば撤収されてしまうそれらを横目に、パラパラと止んでいく拍手の音を聞いていた。俺自身は、少し手が痛くなって来た時点で止めていたが。
入学式と始業式を同時に行うというのは、良いアイディアだと思う。何より、長い式典に二度も出席する必要が無いのは有り難い。
けれど教師達の目論見は恐らく、一度に執り行う事で準備も片付けも生徒達にさせる事が出来る、という点にあるのだろう。
そんなに面倒なら、やらなければ良いのに、と。思ってはみても、何事も伝統を重んじるこの国ではそうも行かないのだろう。
大きく欠伸をして、目尻に滲んだ涙を拭いた。隣に座っているクラスメイトは未だ船を漕いでいる。
アメリカには、入学式など無い。せいぜい歓迎パーティーめいたものが開かれるだけだ。
去年初めて入学式というものに参加したが、あの時も睡魔との闘いに必死で、校長の挨拶やPTA会長の言葉など、何も覚えていなかった。恐らく、完敗していたのだろう。いつ寝たのかも分からなかったほどだ。
途中一瞬覚醒した意識の中で、酷い緊張で上擦った声が聞こえていたのを思い出す。あれは所謂『新入生の挨拶』というものだったのだと。偶然にも同じクラスだった新入生代表が、挨拶が云々と言っているのを聞いて知ったのだった。
『桜の花も咲き誇り、天気にも恵まれた今日この日、私達は……』
どこにでもありそうな、けれど自分に書けと言われても断固拒否するだろう、そんな挨拶。
恐らく新入生代表に選ばれた生徒は、まだ入学すらしていないと言うのに国語教師と面会し、原稿用紙片手に打ち合わせをするのだろう。
面倒くさそうにそんな話をしていた人の事を思い出す。
自分用の着替えがいつの間にか常備されている彼のクローゼットの中に、見慣れない制服がズラリと並んだのは三月の半ばの事だった。
左の胸ポケット上にあるエンブレムは相変わらずだが、若干色の違うブレザーにスラックス。たった今仕立て上がりましたとばかりに新品の匂いを放つそれらは、ウォークインクローゼットの左側にこれでもかと並んでいる。
つい先日までそこに並んでいたのは、見慣れた氷帝学園中等部の制服だった。とすればこれは、高等部の制服か。
「……ってーか、買い過ぎ」
私服の並ぶ右側の壇上、綺麗に畳まれたシャツを一枚取りながら、呟いた。
毎日着るものだとは言っても、さすがにこの数は異常だ。まっさらのカッターシャツとネクタイも、どこかに揃えられているのだろう。
このクローゼット自身も、恐らくは自分の私室より広い。奥行きを計測すれば、十数歩はあるはずだ。何のためだか、奥の壁際にはソファまで設えられている。
天窓からは日の光が燦々と差し込んでいた。……ここで生活しろと言われても、不可能ではないだろう。
「おい、何してる」
鞄だとかアクセサリー類までもが綺麗に並んだ棚を見て、今更ながらに感心していた背中に、このクローゼットの……部屋と呼んでも差し支えの無い様だが……主が、声をかけた。
「これ、高校の制服?」
一着を手にとって尋ねると、他に何に見える?とばかりに怪訝な顔をされる。
何気なく、近くにあった姿見に、それを当てた自分を映してみる。
サイズ違いも甚だしいそれは、彼との体格差を明確にしている様で、やって直ぐに後悔した。
「似合わねぇな、ブレザー」
笑いを含んだ台詞が聞こえて来て、ムッとする。
「アンタも似合わないだろ、学ラン」
「さあな、着てみた事もねぇ。着る必要もねぇが」
日本人離れした容姿を持つ彼に、漆黒の学生服はどこか不釣合いだ。逆に、中間色のこのブレザーはよく映えるだろう。言ってやらないけれど。
「……入学式っていつ」
ブレザーを元の位置に戻し、いつの間にか距離の近付いていた彼に問いかける。
「来月の九日だ。まだ暫く休みだな」
「じゃあウチと一緒じゃん。青学の入学式も、確か九日」
「よく覚えてるな、珍しい」
「……始業式が同じ日なんだよ」
馬鹿にされた様で眉を顰めるが、皺の寄ったそこに落ちて来た唇がそれを阻む。
断続的に続く軽いキスが何を示すかなど、理解する前に体が動いてしまうのだけれど。
「もしかしてあのソファって、こういう時のためにあるんじゃないの」
「……なるほど。良いアイディアじゃねぇか」
ニヤリと笑った唇に、しまった、と思ってももう遅い。
次の瞬間には軽々と抱え上げられて、向かう先は壁際のソファだ。
半開きのままの引き戸が気になりはしたが、どうせクローゼットは彼の部屋から続き。誰が入って来るという訳でもない。
抵抗を諦めて、手に持ったままだったシャツをどうするか、それだけに困った。
熱烈なキスを受けた直後には、そんな存在すら忘れてしまっていたのだけれど。
「後片付けご苦労さん!今日の部活は休みだ、帰って良いよ!」
顧問の号令に従って、今やすっかり片付いた体育館を後にした。
体育館の端にはパイプ椅子が綺麗に詰まれたワゴンと、ロール状に巻かれたシートが積んである。花もリボンも撤収済みだ。
元々部活が無いというのは聞いていた。今日の荷物も、配布されたプリントを入れるファイルと、財布と、携帯と。それらを入れた布製の鞄のみ。
この後の寄り道への誘いを、全て断ったのは何故だったのだろう。
もしかしたら予感がしていたのかもしれない。鞄に入れたまま部室に放置してあった携帯に、何らかの連絡があるだろう、と。
案の定、小さく点滅を繰り返す携帯には、呼び出しのメールが入っていたのだけれど。
氷帝の入学式は昼からだと聞いている。青学は朝から。昼休みを挟んで片付けをして、今は夕方だ。待ち合わせには丁度良い時間だろう。
互いの中間地点を指定したメールに、そちらに向かうから待っていて、とメールを返す。
気紛れだった。
ただ、新しい制服で、新しい場所に立つ、彼を見たい。そんな気がした。
ピンク色には、如何わしい意味の付随する事がある。どぎついショッキングピンクが踊る雑誌なら、自宅の父の私室に幾らでもあるだろう。
それでもこの色は……桜は。どこか儚げで、淡い。
だから桜色と呼ぶのか。ピンク色でも桃色でもなく、桜色、と。
街路樹として植えられた桜達の全盛期だった。目線を上げると桜色。目線を下げても桜色。敷き詰められたその花弁に足を踏み出すのを一瞬躊躇して、それでも立ち止まっている訳にも行かず、諦めて歩を進める。
時折強く吹く風が髪を掻き乱して行く。顔にパタパタと当たって行く花弁達は、渦を巻きながらアスファルトを走った。
この桜も、一度雨が降れば変色しながら朽ちていくのだと聞いた。そう言えば去年もそうだった気がするが、気にした事もないかもしれない。もう、分からない。
先日、青学高等部の入学式が執り行われた。複数の子どもを持つ保護者への気配りなのか、高等部の入学式は六日に行われたそうで。
卒業式は、三月の半ばだった。彼のクローゼットに真新しい制服が並ぶ少し前の、よく晴れた日だった。まだ桜は咲いていなくて、寒い日が続いていた様に思う。冷え冷えとした体育館の空気を覚えている。
啜り泣きが、聞こえていた。声に出して泣いている人も居た。
卒業とは、めでたい事ではないのか、と。思いながらもどこか、しんみりとしている自分が居た。
後期から生徒会長を務めた二年生の送辞の後、答辞を読んだのは、手塚先輩。もう、部長ではない。
朗々と響く声の中で、俺は壇上を見上げていた。
先輩達の引退を終えたテニス部は、どこか閑散とした印象を受けた。あれだけ大きかった存在がごっそり居なくなった空間は、まるで主を失ったかの様で。
振り払う様に号令をかける二年生の先輩達が、実は一番寂しがっているのは間違いなかった。
隣の敷地とは言っても、校門は真逆にあって。
「また明日」などと言わなくても毎日顔を合わせた存在が、もう、そうではなくなるのだと。
やっと実感した。
「俺達も、頑張らねぇとなぁ!」
卒業式の後、いつの間にか隣に来ていた桃先輩がそう言った。瞳が潤んでいるのを誤魔化すかの様に、無理矢理笑っていた。
「そうっすね」
それだけしか言えなくて。
胸に薔薇のコサージュを付けて、卒業証書の入った筒を振りながら近付いてくる先輩達を見とめた瞬間、桃先輩は関を切ったかの様に泣き出した。
つられる様に何人も泣いて、泣いて、泣いて。
たった今卒業した先輩達も、泣いていた。
春は、別れの季節だそうだ。それと同時に出会いの季節でもある。
卒業も春、入学も春。新生活が始まるのはいつも春で、これだけ季節の分かりやすい国であれば、イメージが視覚に残りやすいのも当然だ。
桜が咲いたら、別れと共に、出会いが来る……のだと。
その姿は、目を見張るほどの桜色に埋もれる様にして座っていた。
少し風が吹くたびに舞う様に散る桜の花弁は、宛ら風景画の様に彼を溶け込ませていた。自分には読めないドイツ語の文庫本を片手に、中庭のベンチに座る姿は、憎らしいほどに絵になる。
何本あるのだろう、あまりに立派な桜の木が、けれど嫌味でない程度に並んでいる。どこもかしこも桜色なのに、くどさを感じさせないのはこの色のせいだろうか。薄い薄い桜色、ともすれば白とも呼べる様な、そんな色。
「…………ねぇ」
声をかけようとして戸惑ったのは何故なのか、自分にも分からなかった。
ただ、その呟きよりも小さな声を拾った彼の視線が上がって、こちらを向かなければ。きっと自分は、この場から立ち去っていたに違いない。そんな気がした。
「遅ぇぞ、何やってたんだ」
いつも通りの悪態を、いつも通りの表情で言って。
ただその身が纏うのは、あの日に見た、けれど着ているのは初めて見た、真新しい制服。
この場所を、自分は知らない。
彼の属する空間は、最早……自分の知らないものになってしまった。
「……どうした」
怪訝そうに眉を顰めるのも、いつも通り。
それなのに俺は、立ち尽くしたまま動く事が出来なかった。
桜色が、舞う。
ぐるぐる渦を巻いて、視界を覆い尽くす。
「リョーマ?」
気付いたのは、名を呼ばれたから。
いつの間にか立ち上がって傍へ来ていた彼が、緩く肩を掴む。
「おい、大丈夫か?」
何かあったのか?と。
そんな事を尋ねながら小さく掴んだ肩を揺すって、彼は俺の瞳を覗き込む。
何が変わった訳じゃない、ただ……春が来ただけで。
桜が、咲いただけで。
「ねぇ、景吾」
「……何だ」
「アンタもきっと、居なくなるんだね」
彼は、目を見開いた。
俺自身も、自分が何を言ったのか、よく分かっていなかった。ただ零れ落ちた言葉を脳内で反芻した時、どうして動けなくなったのか、やっと分かった。
桜は別れを連れて来る。
それと同時に出会いも。ただ……新しい出会いの中に、別れた人との出会いはない。
「お前、何言って、」
彼が言葉を切ったのは、その胸に、俺が飛び込んだからだ。
額を胸に押し付けて、俯いてきつく目を閉じた。視界に、桜色を入れない様に、じっと。
きっと戸惑っているだろう彼の手が、そっと髪に触れては撫でて行く。
子どもをあやす様なその動きに嫌悪など沸いた事はない。触れられるのは、嫌いじゃない。彼のその手の温度が、俺を安心させる。
そこに居る事を照明してくれる温度だ。
「……俺は、お前と別れるなんて一言も言ってねぇぞ」
分かってるよ、と。言う事が出来れば良かったのに。
声を出す事が出来なかったのは、泣いていたからじゃない。涙は出ていなかった、ただ、この空気を吸うのが嫌で。
肺の中まで桜色が入り込んで来る。さようならの色、桜色。
新しい出会いなんていらない、だから。
さようならもいらない。
「嘘で良いから。きっと、嘘になるから、それでも良いよ、だから」
顔を見る事も出来ないまま、呟く。
「手を、握ってて」
離さないで、離れないで、そんな事は言えない。
離さないよ、離れないから、そんな事も言えない。
アンタと俺が違う事は分かってる。きっと、どこかに見え隠れする「さようなら」を避けても避けても、桜が散るのは止められない。
けれどせめて、今は。この美し過ぎる桜色の連れて来る別れに、どうか染まらないで居たいんだ。
彼の手が、背中をぐっと引き寄せた。強く抱きこまれて眩暈がする様な、そんな感覚を覚える。
痛いくらいで良い。その腕の力を、強く感じれば感じるだけ、その瞬間が遠ざかって行くから。
薄く開いた瞳に映るのは、今もなお、舞い続ける桜の花弁。
散り急ぎ舞う花弁は、もしかしたら数々の「さようなら」を見て来たから、こんなに綺麗なのかも知れない。
別れは、こんなに美しいものなのだろうか。
困らせてしまってごめん。
けれど少し怖いんだ。あまりに桜が綺麗だから。
見たいと思ったその制服姿も、この場所も。嫌で嫌で仕方が無くなるくらいに。
泣けない俺の代わりに、桜が舞う。
ゆっくりと合わせた視線の先で、少し眉を寄せた彼の瞳が揺れる。
俺は少し笑って、その手を取って、ぎゅっと握った。
「桜なんて、咲かなければ良いんだ」
小さく小さく呟いた。
分かってる。例え桜が咲かなくても、散らなくても。時間は止まらないのだと。
硬く握ったこの手を、離さなければいけない瞬間なんて、きっとあっと言う間に。
来ない「さようなら」なんて、無い。
体を離して、けれど手は離さないまま彼を見上げる。
何か言いたい様な、けれど言えなくて戸惑っている様な。そんな表情に首を振ると、歩き出した。
「お腹空いた。何か食べに行こうよ」
忘れてくれれば良い。今のは、桜の見せた白昼夢、ただの気の迷い。
いつ来るか分からない別れを恐れているなんて、気付かないでいて。
だから代わりに桜が泣くんだ。
俺達の「さようなら」が来る、その瞬間まで、そっと。
END
企画第六弾はミツヨシさまに頂きましたリクでした。
シリアス寄り希望、との事だったのでいっそ思いっ切り……と思ったのですが、どうでしょう。
私の地元大阪も、彼らの暮らす東京も、桜はとっくに散ってしまった訳なのですが……!!遅くなって申し訳ありません;;
ちょっとセンチになってるリョーマです。跡部が殆ど喋ってません。
当方で連載中の長編に続いちゃうかもしれない様な流れになってしまいました……。
桜の花って、綺麗なんだけど凄く切なくて。散るのも早いし。
あんなに綺麗に咲いているのに、あっと言う間に地面に落ちて茶色くなって行って。儚いものの象徴だと思います。
卒業や入学に付きものの桜モチーフ。如何だったでしょうか。
ミツヨシさま、企画参加有り難う御座いました!
大変長らくお待たせして、申し訳ありませんでした;;
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