それは、ある色男のお話。





響くのは唸り声と溜息。半透明ガラスのローテーブルの上で、皿に乗った焼き菓子だけが目減りして行く。
気付いてはいたが声は掛けないまま放置。軽いチタンフレーム眼鏡のブリッジを押し上げて、跡部は今一度パソコンのモニタへと視線を向け直した。
すると、あからさまに何かを訴える様な溜息。
米神が、ピクリと引き攣る。

「うっとおしいから他所でやれ……!!」

低く捻り出した様なその声に、クッキーを掴み掛けていた手が止まった。
ゆるりと視線を向ければ、不満を湛えた瞳とぶつかる。
じとり……と音でもしそうなほどに、倦怠感の塊の様な存在だ。見ているだけで此方のやる気まで削がれる気がする。

「……それは無いんじゃない。うっとおしいって。何ソレ」
「そのままの意味だ。生憎俺は、今のお前に構ってやれるほど暇じゃねーんだよ」

溜息と共に吐き出せば、リョーマはぶすくれたままテーブルへと突っ伏した。
正確には、テーブルの上に開かれたままの、分厚い古典の教科書の上へ。

試験が近いのだ、と億劫そうに呟いていたのは、確か一週間ほど前の事。氷帝の学年末試験の日程とそう変らないのだとすれば、今は全てから解放されて存分に羽を伸ばせる時期ではないのか。
それでも未だ、教科書から解き放たれていない所を見ると……。

「追試なんざ、引っ掛かる奴の気がしれねぇ」

そう言ってやると、肩がピクリと震える。
……図星か。後頭部をこちらに向けたまま動かなくなったリョーマを見て、確信した。

確かに苦手だと、聞いた覚えはある。生まれも育ちもアメリカの彼が、現代文や古典を得意とするはずもない。
過去数回の定期テストは一体どう免れて来たのだろうか。
氷帝では追試及び再試の日程と練習試合の日程が重なる事もあるため、欠点を取った者は試合への出場停止を義務付けられている。文武両道。部活動に励む身としては、当然だろう。
故に毎回、やれノートを貸せだのここの数式はどうだの……騒いでいる正レギュラーが、居ない事も、ない。
青学にはその様な決まりはないのだろうか。
―――全く、甘い奴らだぜ。
少々呆れながらも、転がっていたサインペンの頭でリョーマのつむじを突く。

「いつまでそうしてるつもりだ」

頭頂部を押さえながらのろのろと体を起こしたリョーマは、正にやる気のなさそうな表情そのものを浮かべていた。
跡部には、全く分からない感覚だった。授業を受けていて、ノートを取っていて。教科書もドリルもあるというのに、一体何が理解出来ないと言うのだろう。全ての答えは、そこに載っているだろうに。

「……要らないじゃん」
「あぁ?」

小さく呟かれた言葉を拾えば、吐き捨てる様に……それで居つつ控えめに続ける。

「古典ってさ、昔の言葉でしょ。現代の俺らには必要ないじゃん、現代語があるんだし」

―――苦手科目を持つ者が一度はする言い訳だ。
数学なら『足し引き掛け割りが出来れば生きて行ける』。英語なら『自分は外国には行かないから』。理科なら『科学者にはならない』。社会なら『俺は未来しか見てないんだよ』……か。
かと言って、学生である以上避けて通れる道ではないのに。

今のリョーマに古の美や浪漫を語った所で理解する所か「だから何?」とでも返されて終わるだろう事は目に見えていた。
『学年末テスト追試者用対策プリント・古典』……行書体フォントで記されたそれは、可哀想に、皺だけが増えていく一方だ。

「それで、俺にどうしろって言うんだお前は」

跡部は、パソコンに表示されていたワードに上書き保存をかける。卒業証書授与式答辞、下書き。必要無いと言うのに添削をするから提出しろと煩い生徒会担当の教師の下へ、今日中にメールを飛ばさなければならないと言うのに。
……かと言って、この状態のリョーマを放置するほど、跡部は気が長い人間ではなかった。それと同時に、薄情でもなかった。

「別に。……もう良いよ俺、どうせ理解なんて出来ないんだし」

リョーマの口から発されているとは到底思えない部類の言葉だ。
テニスに関してはあんなに強気で、手強い相手を見つければその度に瞳を輝かせていると言うのに。
頼るのが嫌なのか、諦めてしまっているのか。両方か。

手を伸ばしてプリントを引き寄せれば、つらつらと綴られている本文。
―――いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに……
日本古典文学最高峰、スタンダードもスタンダードだ。

「……これの、何が分からないって?」
「全部」
「ストーリーが分からないのか」
「てーか日本語じゃないしそれ。分かる訳ないし」

日本語は日本語なのだが……理解出来ない者にとってすれば、英語の方が単純だ。そしてリョーマの母語はその英語と来ている。
重苦しく吐き出される溜息は部屋の空気さえも悪くする。
けれど跡部は思った。文句を言っても何も解決にはならない。
まずはこれを何とかしてしまわなければ。

取り合えず、と跡部はソファに座り直す。
カーペットの上に直接座り込んでいたリョーマの腕を引き、その横に座らせた。

「この話のタイトルは」
「……ゲンジ物語」
「作者は誰だ」
「紫式部」
「主人公は?」
「ヒカルゲンジ」
「そいつは誰だ」
「……女遊び激しい顔だけの男」
「……帝の息子で、皇子にはならずに臣下に下った男だ」

まぁ間違っちゃいないがな、と。
苦笑しつつ、跡部は続ける。

「この話は、とんでもなく長い恋愛小説だ。全部理解しようなんて思うな、取り合えずは範囲内だけでもストーリーを頭に入れろ。それが出来ねぇんじゃ、設問なんて解けねぇ」
「分かっても解けない」
「やる前から諦めてんじゃねーぞ。良いか、訳してやるから、よく聞いとけ」

えー、だとか、そんなの、とか。文句ばかり言う口には、先ほど掴んでいたクッキーを押し込んで黙らせた。
恨めしげな瞳は無視して、跡部は現代語訳でストーリーを紡ぎ始める。

一人の男の、母恋い物語。
花から花へと渡り歩く様な源氏の君の人生は、男として羨ましい様な呆れ返る様な。

「面白く無い」
「面白さを求めるな。取り合えずは追試だろうが」

そんな問答を繰り返しながら、時間は過ぎて行く。





リョーマがようやく追試対策用プリントを埋め終えたのは、夜の帳も下りた頃だった。

「これを丸暗記出来れば、追試は大丈夫だろ」

飲み込みの悪い生徒相手に奮闘した跡部は、疲れ切った溜息と共に言った。
リョーマはプリントなどもう見たくもない!とでも言う様に、早々と後片付けを始めている。

「帰るのか。飯は」
「……食べてから帰る」

部屋の時計を見上げれば、午後六時。クッキーで膨れたリョーマの腹も、そろそろ空いて来た頃だろう。
ダイニングに降りるのは面倒だ。執事に、部屋まで運ばせようか。
そう思って、ローテーブルの上に置いてあった館内用内線の受話器を、手に取った時だった。

「ねぇ、こっち向いて」

腕を触れてそう言ったリョーマに従うと。シャツの襟元を引かれて、唇にぶつかる慣れた感触。

「まだ追試は終わってないけど、一応、お礼」

ちゅ、と音を立てて離れた唇で、リョーマは笑った。
持ち上げた受話器をもう一度戻して、跡部はリョーマの背を抱き寄せる。

「……全然足りねぇ」

そう囁くと、あぁ俺もそう思ってた、なんて言うから。





それは、ある色男と。
恋物語の雅を語るには、まだ少し若い二人のお話。 




END



企画開始日いつだよ……!!(わぁ石を投げないでっ)
もう何だか本当にすみません。第二段は大加夏穂さまリクの[一緒に勉強中]の跡リョでした。
跡部勉強してねぇ!つーか答辞忘れてるんじゃないのアンタ……!!
折角頂いた素敵リクが活かせなくて申し訳ないです;;

諏訪部ボイスで源氏物語を読んで欲しいヨ!!

大加夏穂さま、企画参加有り難う御座いましたvv

※「花宴」は源氏物語の副題の内の一つ。はなのえん、と読みます。
響きが好きで使ったのですが、内容とは全く関係ありません(笑)




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