ジャッジメント・デイ
その話は、人づてに伝えられた事実だった。
噂なんだが、と前置きをした先輩は、そんな曖昧なものを根も葉もないまま人前で口にする様な男ではなく。
つまり、十中八九……いや、十中九か十くらいは、それが本当の事なんだと確信した上で言い出した事。
そうじゃなかったら、その先輩が先輩たるアイデンティティが崩壊してしまう。
それくらい、彼の言う事には信憑性があった。
「全国大会には、開催地枠という出場枠があってね……」
初耳だ、と目を見開く者。
そんな制度もあったな、と頷く者。反応はそれぞれで。
その中で俺は……打ちかけていたメールを破棄すべく、ボタンを押していた。
ピ、という軽い電子音は、部活後の騒がしい部室には響く事すらなく。俺は何食わぬ顔で、携帯をパタンと折り畳む。
「前年度の成績から考えて、順当に行けば――― ……の確率は、100%」
聞き慣れた校名を耳の端に捕まえて、ああやっぱり、と。
何故だかそんな気がしていた。胸騒ぎすらしていた。だから、ああやっぱり……それで済んだ。
「お疲れっした」
「あ、オチビもう帰んのー?」
「お先ッス」
言葉少なに部室を出れば、既に空には満天の星。今日もまた、部活は日暮れギリギリまで続いた。
先日の関東大会決勝以来、それぞれが自主練に打ち込む時間も日に日に長くなって行く。
九州でリハビリ中の部長も何とか間に合う様だと、今日大石先輩から聞いた。
モチベーションは自然と上がる。ラケットを握っていないと落ち着けないほどに……試合を渇望する。
だからこそ、部活の後に少しでも、と思って、最適な相手に連絡を取ろうと……したのだけれど。
「……俺の勘って、案外当たるのかもね」
空に向かって呟いて、俺は帰路に着いた。
その日の前日の事。
いつもならソファの近くのマガジンラックに入れてある雑誌が、今日は無かった。
何となく理由は分かっていたし、それ以外は読まないなんて拘りがある訳でもない。
けれど、例えば他の、ナントカコレクションがどーの、とかいうファッション雑誌とか。本棚に所狭しとならんでいる和洋折衷文学集とか。
そんなものを読む気にもなれないし、今日に限って携帯の電源は切れそうだしで、内臓されてるゲームをする事も出来ない。
しょうがないから寝るしかないか、とソファに寝転がって、お気に入りのクッションに頭を預けて目を瞑った……矢先だった。
見かけが大層なドアは、開く音も大層だ。ガチャリ、なんて真鍮のノブを押し開けて、その部屋の主は帰還した。
「……オカエリ」
「……来るなら、メールくらいしたらどうだ」
そう言って溜息を吐きながら部屋に入ったその人は、背負っていたテニスバッグを、珍しく乱雑に床へと置いた。
苛立ってる。あまりに分かりやすい、その態度。
「今日はどうした。部活だったんじゃないのか?」
俺の目の前を通り過ぎながらそう言った彼の向かう先は、備え付けの冷蔵庫。
取り出したオキシガイザーに、瓶のまま口を付ける。……また。普段なら絶対しない様な事。
「まーね。DVD、観に来ただけだけど。邪魔なら帰るし」
先日行われたABCオープンの男子シングルス決勝。
生放送を部室で観たのは良いものの、小さなテレビを大勢で囲んだ上、そのテレビもどこで借りて来たんだかって感じの古いやつで。
家でも録画はしてたから観ようと思えば観られたけれど、その話をちらりとしたら、「ハイビジョンをブルーレイで録画してあるから、いつでも貸してやる」とか、そんな事を彼が言ったもんだから。
……けど。今日来たのは、ちょっと、失敗だったか。
「別に邪魔だなんて言ってねぇよ。デッキに入ったままになってるから、好きに観てろ。……シャワー浴びてくる」
嘘だ、とか。感じ悪いんだけど、とか。
それを言うには悪過ぎる空気に、浅はかだった自分を苦々しく思う。
別に急ぐ事でもなかったのに。観逃したならまだしも、ちゃんと生放送を観たんだし。それに、家に録画したDVDもちゃんとある。
それなのにここに来たのは……多分、今日の部活が自主練で、早く帰れたからで。そうしたら、ABCオープンのDVDの事を思い出した訳で。
……と言うのを、口実にしたんだろう、俺は。
あの人は、関東決勝のあの試合を、フェンス越しに観ていた。
けれど、こっちは正直余裕無しだったから、それを気に出来る暇も余力もなくて。
決勝が終わってすぐに行われた六角との合同合宿に参加した俺は、結局、あの日以来彼に直接会う事をしていない。
合宿中に交わしたメールや、DVDの話をした時は、いたって普通だった。
けれどやっぱり、電波越しには何も分かりはしない。
俺は溜息を吐き、ソファから立ち上がった。
家のデッキで、再生出来たっけ?……まあそれこそ、急ぐ事でもないし。
部活帰りにそのまま寄ったから、荷物はテニスバッグ一個。ソファに立て掛けておいたそれを背負い直して、俺は部屋を後にした。
無駄に広いこの家だけど、彼の部屋から玄関までの道のりだけは最低限覚えてる。
途中で会うメイドさんとかに「お邪魔しました」なんて挨拶をしながら、帰る旨をメールで送っておいて。
車の準備を、なんて言う使用人さんに大丈夫ですとか言いながら、やっとエントランスに出れた頃。携帯が鳴った。
『邪魔じゃねぇって言っただろうが!』
開口一番の言葉は、それだった。
普段の彼なら、この電話をしながらあの長い廊下を少し早足で歩いて、俺を追いかけて来るかもしれない。
けれど今日の彼がどうしているのか……やっぱり、電波越しには分からない。
「……急ぎの用事じゃないし、良い。またその内来るし」
早く、切らなければならない。そう思った。
それこそ普段の俺ならば気にしない様な事だ。……他人の、苛立ちとかストレスについて。
ただ、今の彼にとっての俺は。きっと、精神衛生ってモンに、良くは無いだろう。
『おい待てよリョーマ!』
それなのに。帰ろうとする俺を引き止める彼の声は、やっぱり苛立っていた。
何なんだよ。言ってしまえば、こっちは気を使って“帰る”って言ってるのに。
居てもイライラ、帰ってもイライラ?……じゃあどうしろって?
あの試合の記事を、目にも入れたく無い様な人に?
「……俺に、どうしろって言うワケ?」
つい、零れてしまった言葉だった。
俺自身、気の長い方じゃないのは自覚してる。
けれど、今日くらいは。黙って帰る事くらい、出来るはずだったのに。
「どういう意味だよ」
携帯からじゃない肉声が聞こえて、顔を上げた先、さっき出て来たばかりのエントランスに、彼の姿があった。
という事は、追いかけて来ていたのか。そこは、普段通りだったのか。
何だかもう投げやりな気持ちになりながら、俺は携帯の通話を切った。
俺が足を止めたのは丁度、そのエントランスの正面にある噴水の前。
ラフな服装ではあるけれど、風呂上りにいつもなら袖を通すだろうバスローブ姿ではない。
俺を追いかけるために着替えたのか、シャツのボタンは適当に留められてどこか彼らしくなく、髪は濡れたままだった。
傍まで来た彼からは、石鹸の花の香りが強くしていた。
「そのまんまの、意味だけど」
先ほどの問いに答える声に、溜息が滲んだからだろうか。
元から寄り気味だった彼の眉間に、余計に皺が増える。
「だから、その意味を聞いてる。……俺は、お前に出て行けなんて言ってないだろうが」
分かっていないのだろうか。だから、こんな事を言うのだろうか。
このままでは言いたくない事まで言ってしまいそうで、俺は口を噤むしかない。
それは、俺の、普段通りではない。けれど……これ以上、彼のストレスの範囲内に居るのも嫌だった。
「おいリョーマ?」
その声色に少しだけ視線を上げれば、困った様な視線にかち合う。
困っているのも戸惑っているのもこちらだっていうのに。まるで、悪いのは俺、みたいなこの空気に腹が立つけれど、もしも気付いていないにしても、俺に何が言えるだろう。
謝るのは絶対違う。慰めるなんてのも有り得ない。じゃあ、何?
そうこうしている内に、洞察力に優れた彼は、何かに気付いたらしく。
一つ、息を吸って。一つ、息を吐いて。
そして、こう言った。
「……八つ当たりして、悪かった」
その言葉に顔を上げた俺は、その視線にもう一度苛立ちを見る。
怒るなら謝るなよ、と思ってまた腹が立つけれど、俺が表情を変える前に、彼は次の言葉を口にした。
「苛立っているのは俺のテニスの事、もう少しで完成する技の事でだ。……お前には言えないし、関係もない」
その言葉を聞いて、俺は勘違いに気付く。
そして……自然と入っていた、肩の力を抜いた。
てっきり……あの試合の事かと思っていたのに。
勿論俺に譲るつもりなんてさらさら無かったし、あそこに立つだけの自信もあった。だから俺は、中学テニス界最強なんて言われてる、凡そ常人とは思えない相手と対峙しても笑っていられたのだから。
けれど、俺と同じくらいの……いや、もしかしなくても、叶わなかった故にもっともっと上の渇望を、この人は抱えていただろう。
あそこに立ち、あの相手と対峙するのは……自分だったはずだ、と。思わずには居られなかっただろう。
けれど、その思いを噛み砕いて消化するだけの器量を、備えていない人ではない。
例えそう出来なくとも、それをあからさまに本人に向けるほど、小さな男では、ない。
分かっては、いたのだけれど。
「……そ」
「ああ」
そう言った彼も、少し力が抜けたらしく。いつもの笑みを唇に刻んだ。
「戻れよ。観て行くだろ?ABCオープン」
「……イイや、今日は。帰って練習したくなった」
最初よりもかなり軽くなった足取りで俺は踵を返した。
けれど、その肩を彼の手が掴む。
「な、……」
一瞬で掠め取られた唇に、言葉を失う。
「ちょ!ここ、外!」
「あーん?うちの庭だろ。問題ねぇよ」
「ある!って言うか、ほらそこに何か……SPみたいな人居るし!」
「大丈夫だ。何も見てねぇし、何も言わねぇ。プロだからな」
「そういう問題じゃ、」
無い、と続いたはずの言葉は、彼の腕に閉じ込められる事で塞がれる。
「……離せよ」
「久しぶりなんだ。これくらい許せ」
そう言った彼の指が擽る様に髪を絡めて、妙にくすぐったい。
そして、しょうがないから凭れかかったその体が、以前より厚みを帯びている事に気付いた。
……そう、この人は。
諦めてなんかいない。
「その、新技……?完成したら、俺で試せば」
「馬鹿言え。おいそれと使えるかよ。お前、泣くぜ?」
「……随分自信あるんだね」
「当たり前だろう。俺様を誰だと思ってるんだ」
笑ったのが、振動で伝わる。
その心地良さと同時に、ふと。胸に去来する予感があった。
今はまだ何なのか分からない。けれど、それは確信めいた何か。
全国大会八日前の、夜の事だった。
全国大会三回戦。
その日の天気予報は晴れ。けれど朝、桃先輩が「今日は多分、雨になる」と言った。
何の根拠も無いはずのそれに頷けたのは、俺自身も感じていたからだ。
雨……いや、嵐になるかもしれない、なんて。そんな予感。
コートをぐるりと囲む、200人の部員達。
恒例の氷帝コールが始まり、一気に熱の上がるコートの中、俺達は、ネットを挟んで向かい合う。
アンタの視線の先には、手塚部長しか居ない。俺と目が合う事はない。
そして俺の視線の先には……アンタしか居ない。
あの日の予感が本当になった日。今日のオーダーを、俺はさっき聞かされた。
残念だけど。……アンタを倒すのは、この俺だから。
「それでは、全国大会準々決勝、青春学園(東京)VS氷帝学園(東京)の試合を始めます!!」
―――さあ。幕は切って落とされた。
END
全国大会氷帝戦前のお話でした。
原作で言うと、寿葉ちゃん来襲の日の夜。その次の日に氷帝の全国出場が決まる、つまりATOBEスポーツジム&氷の世界完成という事になります。
時系列……合ってるはずなんですが。何かおかしかったらごめんなさい。
ずっと書きたかった、氷帝戦挨拶時のあの……リョーマの熱い視線(笑)の所。
それが書けたので非常に満足です。跡リョ的には、やっぱあの試合は伝説ですから!
まぁ彼らの試合自体は次の日に持ち越してしまうのですが。
もしこの二人が全国大会前にステディな関係になっていたのなら、関東決勝のリョーマVS真田を、跡部がどう観たのか。
一心不乱にトレーニングに励む彼の心境について考えてみて、私なりの答えを出してみました。
勿論リョーマ視点で書いているので表現し切れてない部分もあるのですが、それも跡部の美学かな、と。やっぱ頑張ってる所とか必死な所って、隠したがる男だと思うんですよね(笑)
なので、ニュアンス的に読んで貰えれば嬉しいです。
と言う事で、うちのサイトも二周年を迎えました。
これも応援して下さる皆様のおかげ!本当に有難う御座います!!
せめてものお礼に、と思いまして。個人的に凄く大きな、全国大会氷帝戦前、というシーンを選んでみました。
完全フリー形式を取らせて頂きますので、煮るなり焼くなり好きにしちゃって下さいませ。
貴サイト様に有り難くも掲載して頂ける際には、お手数ですがちょこっと著作を書いて頂けますと嬉しく思います。
これからも当サイト、並びに管理人・黒蜜を、よろしくお願い致します!!
(2008/02/14)