二十九日の夜
合同学園祭の話をその口から聞かされた時、リョーマは正直に眉を顰めた。
全国大会も間近に控えた今、学園祭なんてやってる場合か?と。
勿論それは正論で、殆どのテニス部員がそう思った事だろう。
けれど、会場を押さえ資材を揃え、準備の前段階を全て揃えた男を前に、溜息を吐く以外に異論を示す術は無い。
例えばこれが、全国大会へ出場しない学校の誰かが言い出した事ならば、それは嫌がらせ以外の何物でも無いし、そんな案に乗る人間も居ない。
けれど、開催地枠とは言え、去年の経歴から公式で選出された学校の部長が言い出した事ならば別。
何より、資金は全て負担する、との待遇ぶりであれば。
……それでも何人かは、「裏がある」と疑って憚らなかったが。
「一体幾ら使ったワケ?」
「そんな事は知らなくていい」
「……底無し」
「当たり前だ。俺様を誰だと思ってる」
そんな風に得意気に笑われては、苦笑するしかなかった。
何よりも目の前の男は自分の。自分の在籍するテニス部へのリベンジをかけているのだから。
テニスで勝てないからって学園祭?等と意地悪な事を言ってみるのも良かったのだが、止めておいた。
イメージする事さえ難しい程に、この学園祭が大規模な物だと、企画書をパラ見しただけでも分かったからだ。
その真ん中で実行委員長を務める言い出しっぺは、それこそ完璧主義者だからこそ、きっと倒れるまで無理をするのだろう。
それこそ、イメージ出来ない程に。
「あぁん?間に合わないだと?何度も言わせるな、それを間に合わせるのがお前の仕事だろう」
怒声にも似た声が、少しだけ開いた扉の隙間から漏れて来た。
一瞬そのまま躊躇してから、リョーマは、開け掛けた扉を今一度閉めた。
本館の委員会本部。実行委員長である跡部は、殆どの場合はそこに居ると言う。
この学園祭という大きなイベントを取り仕切り、それで居て氷帝学園側の模擬店にも心血を注ぎ。
自らが主役を張るアトラクションでも、一切の手抜きは見られない。
上手い事言って自分を引きずり込んだアトラクションでは、古典芸能の真髄に迫る演劇を。
出番の比較的少ない自分でさえ、難しい言い回しの台詞を覚えるのには四苦八苦していると言うのに。
既にその全ては脳内にある、と言う彼の、それこそ脳内はどうなっているのか、と。
透かして見る訳にはいかないので考えるだけで止めるにしろ、とんでも無い事は確かだ。
委員達の会議室を兼ねるその部屋の分厚いドアに背を向け、リョーマは壁の時計を見た。
午後六時半。一応は閉門時間を過ぎている。
が、実際に今この時点で本部内には何人もの実行委員が居る上、廊下では人の行き来も盛んだ。
準備期間も折り返し地点を超え、そろそろ切羽詰って来るのか、延長届を提出している学校も多いらしいと聞く。
自分の担当している喫茶店は比較的順調で、今日も定時の六時に終わる事が出来たのだが。
まぁ、しょーがないか。
横目でもう一度本部のドアを見て、リョーマは踵を返した。
もし帰れるのなら、と思った自分が甘かったのだろう。
どうやら跡部は今、多忙の極みに居る様だ。
と言うよりも、学園祭準備期間に入るより前から、比較的忙しそうではあったのだが。
顔色、良くなかった。
そう思いながらリョーマは、本館、そして会場を後にした。
それから数日が経っても、リョーマの携帯は鳴らなかった。
流石に気になったリョーマが跡部の携帯にかけても、電話中ばかりで。
準備期間も終盤に入り、俄かに忙しい日々が続いてはいるが、実行委員長の仕事には休みなど無いのだろうか。
無理、してるんだろーね、やっぱ。
脳裏を掠めるのは先日見たあまり血色の良くないあの顔で。
後日アトラクションの練習で会った時には、ごく普段通りに見えたのだが。
それでも微かに引っ掛かるものがある。
長いとは言い難い付き合いではあるが、それでも何となく、気付くのだ。
会場からの帰り道でふと思ってしまえば、どうも気になってしょうがない。
時刻は午後七時半過ぎ。勿論閉門時間は過ぎている。
先ほど自分が出る頃にはもう門は閉まり掛けていたので、今はもう施錠済みだろう。
けれど何故か、きっと彼はまだそこに居るのだと、そう思った。
警備員には忘れ物をしたと言って門を開けて貰い、会場に入る。
すっかり日も落ちて暗くなった会場には、非常灯以外の電気が点いていない。
大凡全ての生徒がすでに帰宅した後なのだろう、人っ子一人居ないとは正にこの事だ。
けれど、確かに彼は、ここに居る。
警備員の話だと、実行委員長の跡部は、まだ出て来ていないと言うのだから。
この時間まで残るという事は、十中八九、委員会の仕事だ。
模擬店ブースの方には目もくれず、リョーマは本館を目指した。
こちらも非常灯以外の電気の落ちた、薄暗い廊下を歩く。
正直、不気味な雰囲気だ。そう言えば最近、変な噂も耳にする。
窓に映る人影がどーのだとか、階段が増えるだとか減るだとか。
その手の非科学的な事は全く信用しない性質ではあるが、この空間が酷く不気味なのには変わりない。
自分の靴音に混ざって、時計の秒針の進む音や、自動販売機の電気音までがやけに大きく聞こえる。
少しだけ身を硬くして速度を速めたリョーマは、以前開けかけて閉めた、委員会本部のドアの前で足を止めた。
ドアの隙間から、明かりが漏れている。
少しだけ息を吸い込んでから、リョーマはドアノブに手を掛け、ドアを押し開いた。
煌々と光る蛍光灯。
広い本部の部屋に、所狭しと並ぶ長机と椅子。
その一つに、よく見知った背中を見つけた。
机に突っ伏した、背中を。
「……景吾?」
呼びかけても、一向に返事が無い。
恐らく、あまり信じられない事ではあるが、きっと彼は。
眠ってしまっているのだ、書きかけの書類が散らばった、机の上で。
ゆっくりと近づいても、全く目覚める気配が無い。足音を消している訳でも無いのに。
終には彼の真横に立っても、その寝息が乱れる事は無かった。
右手にはボールペンが握られている。
左手は彼の側頭部の下で、書類の一枚をくしゃり、と乱していた。
綺麗な寝顔だった、ただ、眉が少し寄っていて。
もしかしたら夢の中でさえ、彼は激務に追われているのかもしれない、と思うと、リョーマは今すぐにでも彼を起こさねばならないと。
けれどきっとこの、不本意であろう睡眠時間が彼の疲労を回復させているのだろうとも思うからこそ、躊躇う。
200人の頂点に立つ男、大富豪の御曹司、派手好きの仕切りたがりの目立ちたがり屋。
他人が勝手に彼を形容した言葉なら幾らでもあるが、その全てが人々が思うほど楽な立場じゃない事は、よく分かっていた。
そこに今一つ、この大規模な学園祭の実行委員長という仕事が加わっている。
そろそろ何処かでガタが来ても、可笑しくは無いはずで。
床に膝を付いて、跡部の寝顔を見つめる。
自分が起きる頃には跡部も起きているので、今思えば何度も朝を共にした割には、見慣れない寝顔だった。
眉間に寄った皺の原因を少しでも取り除いてやりたくて、リョーマはそっと、その髪に指を差し込む。
す、と髪を梳いても、跡部が目を開く事はなかった。
少しだけ息を吐いて、今一度規則正しく寝息を立て始める。
不安になる。もしかしたら目を覚まさないかもしれない。
激務に追われて疲れているだけだとは分かっているのに、こんな跡部を見た事が無いからこそ。
けれど真逆に、リョーマの唇は笑みを刻んでいた。
自分の前で、不本意とは言え、ここまで無防備な姿を晒した跡部に。
顔を近づけ、リョーマは跡部にキスをした。
触れるだけのキスは直ぐに離れて、そしてもう一度触れる。
舌で唇を舐め上げた時、跡部が目を開いた。
「…オハヨ」
「……ハムレットは白雪姫でも、眠れる森の美女でもないぜ?」
「ついでにオフィーリアは、ハムレットより先に自殺してるし?」
「オフィーリアのキスで目覚めるハムレット、か。…ハッ、死後の世界での続編でもあんのか」
変な体制で寝ていたからか、少し眉を顰めながら体を起こして、跡部が笑った。
「何してんだお前。とっくに閉門時間は過ぎてるだろ」
「アンタこそ。こんなトコで寝てちゃ駄目じゃん」
「俺様はいいんだよ。警備員には顔パスだ」
少し乱れた書類を掌で伸ばしながら、ファイルに入れる。
「仕事、もうイイの」
「もう時間も遅い。残りは家で済ます」
「ふーん?じゃあ、少しくらいなら時間取れる?」
「あ?」
跡部の返事を聞くより前に、リョーマの指は、跡部のネクタイへと伸びていた。
真紅が細い指で解かれる。
「アンタ疲れてるっぽいし。いいよ、何もしなくて」
「……セルフサービス、ってか」
「俺には」
「?」
俺には、他にしてあげられる事なんて無い。
呟きは口の中で消え、言葉として生まれる事は無かった。
けれど跡部はリョーマの腕を引き寄せ、膝の上に座らせた。
「……電気」
「リモコンで消える」
「これ?」
「ああ」
「……ん」
蛍光灯の明かりが消えて、緑色の非常灯だけが煌々と輝いている。
ジジ、と鈍い電気音と冷房の音だけの部屋に、吐息が混ざるのはその直ぐ後だった。
後に残るは八月末の。
むっ、と暑い、熱帯夜。
END
(2006/01/26)
学園祭の王子様ネタ。分からない方には何とも不親切な(笑)
リョーマルートをクリアしたんですが、乙女ゲームなのにあまりに跡リョ過ぎて、書かずには居られなかったよ。
……えぇ、多少のフィルターは掛かってますが。
ご存じない方のために補足説明。
各校部員入り乱れのアトラクションで、跡部が演劇を提案します。演目は「ハムレット」。
そしてリョーマが跡部直々の指名で、その恋人役のオフィーリア役をやります。
……なんて悦!(萌)
私は「ハムレット」の内容をよく知らないので、矛盾があったらすみません;;
ついでに余談ですが、この話のタイトルは日吉ルートに被せてあります。
日吉とヒロインが七不思議解明のためにこっそり居残った時、何故か跡部も居たんですよね、全ての電気が消えた本館に。
で、きっとあの時、リョーマも一緒に居たんだろうなぁ、と自己満足(笑)
あぁ、満足!!
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