10月のサンタクロース 窓の外で小鳥がさえずり始める頃。 日頃の習慣からやんわりと浮上を始める意識の中で、酷く心地の良い夢を見ていた気がする。 それは、浅い眠りに浮かぶ柔らかな感触。温かくて、良い匂いがして。 思わず覚醒を拒否してしまう様な、抗い難い幸福感の中で。跡部は、その“もの”を抱き寄せた。 鼻腔をくすぐる甘い香り。砂糖菓子とは違う、花弁でもない。しかし何とも言えないその香りに、自然と唇が綻んだ。 そして、絹糸が頬を滑る。それは跡部の纏う上質なシルクとはまた違う、しかし負けず劣らずすべやかな絹。 ―――あぁ。このまま惰眠を貪るのも、悪くは無い。 らしくない思考が、覚め切らない意識の中で揺らめく。 そしてそのまま堕落してしまいそうになった……その時だった。 「う、……んん……」 小さく上がったのは、唸り声にも似た。 少なくとも、彼に起床を促す役目を担っている、愛猫の鳴き声だったり。はたまた、例になく定例の時間に目覚められない跡部の様子を伺いに来た執事だったり。そしてはたまた、酷く抱き心地の良い抱き枕だったり……するものでは、ない。 その事実に、おぼろげながら気付いた瞬間。跡部の意識は一気に覚醒し、ぴったりと閉じられていた瞳が見開かれ。 そして反射的に、腕にあったその“もの”を、突き飛ばした。 「っ!?……なっ」 そして突き飛ばそうとも広いベッドの上、床に落ちる所かなんと目覚める事すらなく、小さく眉を寄せ不満げな吐息を吐き出したのみで、すぐさま規則正しい寝息を立て始める、一人の少年の姿が、そこに。 「……な、何だ……!?」 寝起き早々にとんでもない速さで鼓動を刻む心臓が、痛くて堪らない。 正常に言葉を紡げないままその“もの”を呆然と見つめる跡部は、乱れた呼吸を何とか整えて、ようやく息を飲んだ。 ベタな話。もしもそこに寝ていたのが、見知らぬ女だったりしたのなら。 衣服の有無やら自らの体調を、確認しようとしたかもしれない。 だが、そこに寝ていたのは、跡部のよく知る人間で。 しかし、そこに居るはずのない、人間で。 「……リョーマ……!」 その人間……越前リョーマの名を小さく紡ぎ。 なかなか治まらない動悸を落ち着かせるため、左胸に手を添えた。 その前日、10月3日の夜。 金曜の授業を終え、明日明後日の週末を控えたその晩に、跡部の携帯が鳴り響いた。 液晶画面に表示された名に片眉を上げながら、珍しい事もあるもんだと折りたたみ式のそれを開く。 「俺だ」 『……他に誰が出るワケ』 開口一番に不平を漏らす相手は、越前リョーマ。 しかしそれは……この場合どちらもが今更であるから、この二人にとっては挨拶みたいなものだ。 そう……例えその距離が、海を越え国を越えた時差14時間の先であったとしても。 「どうした。珍しいじゃねーか」 『まーね。……どうしてるかなーとか、思ったから』 外音がざわついている。所々入るノイズは国際電話、しかも携帯同士の場合はしょうがないのかもしれないが、それが何やら煩いほどだった。 「……おい、雪が降るから変な事言うのは止めろ」 その裏に“可愛い事言うじゃねーの”なんて惚気にも似た響きを内包しながら、苦笑混じりの返答。 そしてまた、どうやらバツが悪かったらしいリョーマが、不満げな響きを乗せる。 『煩い。じゃあ二度とかけない』 彼からの着信が珍しい事自体は本当だったからこそ、この言葉も実行されてしまいそうで。 しかし、それが照れ隠しである事は見え見えで。 何かが言いたくてこの電話をかけて来た、その“何か”には大体の見当……主に期待めいた思いを込めた……をつけながらも、ではどうやって彼がその言葉を口にするのかを、楽しみにしている自分がいる。 「そう言うなよ。……そっちはどうだ。調子は」 『……まぁ、やってるよ。そこそこ』 不満な響きは残したまま、それでもまだ、電話を切るつもりはなさそうだ、と。 自室のチェストに腰掛けながら、相変わらず天邪鬼なその性分に、たったひと月で何が変わる訳でもないか、と一人納得する。 リョーマが、彼自身の生まれ故郷であるアメリカに帰国してから、ひと月が経つ。 全国大会が終わるや否や。数日後には、大概の物は向こうにある、と殆ど鞄一つで飛行機に乗り込む姿に、突飛な所も彼らしい、と呆れも最早苦笑に変わった。 もう少し……例えば、その帰国を迷っているだとか、悩んでいるだとか。万に一つも有り得ないが、寂しい、だとか。 その手の相談を、ほんの少しでも受けていたのだとしたら。また、感慨は変わっていたのだろう。 しかし自分がその報告を受けたのは、何と出発する前日の事だったのだから、もう何も言う事はない。言える事もない。 結局、彼がこんな狭い島国で止まる器でない事を、自身が身を持って知っていたのだから。 「年末には戻るのか?」 『一応そのつもり。まだ分からないけど』 「ちゃんと連絡して来いよ。俺にも予定があるんだからな」 『別に無理に空けろなんて言わないし』 どう言われようとも、どんな予定があろうとも。結局は彼のために空けてしまうだろう事も、自覚している。 つまり、そういう事だ。 どれだけ距離が離れようとも、その存在の輝きは、色を失わない。 『……で、さぁ』 「ん?」 『明日……』 分かっていて、けれど少々意地悪く。 彼が言いよどむなど、あまりにも珍しいこの状況を、楽しんでしまう自分。 「何だよ」 時差14時間の先は、朝。学生である彼は、これから授業なのだろう。 だからこそ、それが始まる前に。 ―――可愛いヤツだな。 跡部は、口元が緩むのを抑えられなかった。 そして、電話越しにそれが伝わらない様に、口元を手で覆う。 こんな顔は、絶対に見せられない。そう思いながらも、どうしてもにやけてしまう。 『……誕生日。オメデトウ……の、予約』 そして、彼がそれをどんな顔をして口にしているのか。 自分の顔を見られたくはないが、向こうの顔は見てみたい。 「ああ。……有難う」 もし可能ならば、今からでもその場へ飛んで行きたい。 そんな叶わぬ事を思いながらも、感謝を小さく口にする。 『朝くらいに、届くから』 「あ?」 『……じゃ!』 と。先程までのテンポはなんだったのだろうと思わずには居られないほどいきなり、通話は途切れた。 残されたのは、機械的に続く電子音と、置いてけぼりを食らった跡部だけ。 「な……んだ?」 それは恐らく照れ隠しなのだろうが、それにしたって性急だ。仕方なしに携帯を閉じて、今し方までこの機械が繋いでいた先に、思いを馳せる。 何にせよ。彼らしくない行動に、微笑ましさと……愛しさを。感じずには、居られなかった。 寝支度を整えて、寝室に入りながら。 先程耳元で告げられた、少々気の早い“おめでとう”を思い出し、再び唇が緩む。 幸福な気分に浸りながら。 日付が変わるよりも先に、跡部は眠りの世界へと導かれて行った。 そして翌朝。 漸く平常を取り戻した自分を確認してから、未だ安らかに眠り続けるリョーマに近付く。 確かに……本人だ。幻影だとか、夢だとか。はたまたドッペルゲンガーだとか。その手のものでもなさそうだ。 試しにその頬を突いてみるが、温かな体温と感触を指先で感じる事が出来た。 間違いない。本人である。 その事を脳が理解してやっと、跡部に余裕が生まれた。 そして起き抜け早々に起こった珍事件に取り乱してしまった事や、何だかとても疲れてしまった事。 それらを統合した苛立ちを内包したまま、リョーマの肩に手をやり、揺さぶる。 「おい!」 「……んー」 「んーじゃねぇ!起きろ!」 漸く目を覚ましたリョーマが欠伸をしながら跡部と視線を合わせるまで、そこから数分を要した。 「オハヨウ」 「……てめぇ何してる」 「……寝てた」 「見りゃ分かる!何で俺のベッドで!つーか何でここに居る!?」 目を擦りながらボンヤリとしているリョーマに、捲くし立てる様に指を突きつければ。 「……だから、言ったじゃん。朝くらいに届く、って」 「はぁ?」 「present for you」 そうして、自分を指差しながら、微笑んで。 「要らないなら、返品化デスが」 そんな事を言うものだから。 「……有難く頂いておく」 たっぷりの時間を要しながら。 久しぶりの愛しい存在を、腕に抱き締めた。 プレゼントを枕元に届けてくれる、サンタクロース。 ふた月以上もフライングで、それでも。 どんなプレゼントよりも嬉しい、その存在を腕に抱ける事が。 Happy Birthday To You. Happy Birthday To Me. (2008/10/04) BACK