紅色デスサイズ
半月をふっくらとさせた様な、柔らかい月の浮かぶ空は暗い。 しかしどこか澄んでいて透明度を感じさせるのは、このきりりと引き締まる様な、それでいて冷たさを感じさせない、この季節特有の風を運んで来るからか。 ふわり。前髪を撫でる様に吹き上げて行く風は、女神の愛撫とまでは行かなくとも限りなく優しいものであったのに……この屋敷の主の機嫌は優れない。 ―――今度はいつ戻る? ―――さぁ……気が向いたら、その時に。 そう言って悪戯めいた笑みを浮かべた少年は、未だ帰らない。今日はもう、諦めるべきなのか。 けれど昨晩観た夢に、彼は現れた。彼は、人の夢に潜り込む様な芸当は持ち合わせていないが……生憎この手の夢が外れた事はない。いわば、特殊なのは自分だと……主は理解していた。 それに、先ほどより血が滾るのを感じている。体中を巡る命の源が、ザワザワとざわめいているのだ。 それは、肉体的欲求よりももっと本能的なもの……飢餓感と言っても良い。 主……跡部景吾は、口元に笑みを浮かべた。 自分にそれを齎すのも、また、それを解消するのも彼だけ。この契りは、絶対的な支配力を持って身体を、命を、結んでいる。 心地の良い愉悦感。独占されると同時に、独占する悦びを。 結局はここへ……自分の元へ戻るしかないのだと知っていて尚、嘲る様にその身を隠す少年に些か憤りを感じないでもないが…… それはそれ。何もかもが思い通りな事ほど、退屈な事はない。 時間は腐るほどあるのだ。この方が楽しめるというもの。 ……しかし。 刻んだ笑みは再び掻き消え、弧を描いていた唇が歪に歪んだ。 昨夜の夢への期待から、今宵の晩餐時にはいつもの葡萄酒を控えたのだ。本物を目の前にして、偽物で腹を満たしてしまっては勿体が無いというもの。 最上級に味わうには空腹を。それが、跡部の機嫌を降下させているもう一つの理由である。 しかし、もしも……もしもだ。昨夜の夢が、ただの……それこそ願望が形になった様な情けないものだったとしたのなら。 葡萄酒を控え、ついでに食事をも控え、こうして待ち続ける自分はただの馬鹿の様ではないか。 壁を大きく切り取ったガラス戸は、いつもならベルベットのカーテンで覆われている。満月の夜以外には基本的に締め切られたその場所は、彼の訪問を受ける時だけ例外的に開け放たれる。 深く濃い薔薇色のカーテンは金のロープで纏められ、豊かな弛みを見せながらそのガラス戸を飾る。 その向こうに広がる広いテラス、そして夜空と月。 間違い様がないが、それでも彼が真直ぐに舞い込める様にといつもより多く灯したロウソクはきっと、月から見ても神秘的な色合いを放ち、この部屋を照らしているだろう。 準備は整っている。あとは来客を待つのみ。……なのに。 跡部は、飴色の猫脚が細いソファに身を沈め、苛立たしげに舌打をした。 今すぐ地下のワインセラーに行って、ボトルごと煽りたいほどに……腹も喉も渇き切っている。 期待してしまった分増幅した、爪を立てて喉を掻き毟りたい様な飢餓感に、少しずつ理性すら削られている様だ。 このままでは……この身、そしてあの少年に誓った契りを、破ってしまうのではないか。そんな危機感さえ覚える。 誤魔化す様に、シャツのボタンを緩めた。立ち上がって、纏っていた上質な外套も脱ぎ捨てて。 少し身軽になって息を吐いた跡部は、右手を振って部屋中のロウソクを消してしまうと、そのままテラスへと出た。 月明かりと星明りのみになっても尚明るいテラスに立つと、外套を脱いでしまったせいで少し肌寒くも感じる。 肌寒いのは……それだけではない。飢餓感に加え、失望感の様なものさえその身を取り巻いているからだ。 会えるだけでも良い。 そんな言葉が過ぎって。 その時だった。 極限近くまで餓えた跡部の鼻が、何やら甘い香りを捕らえる。どちらかと言うと、跡部の好まない部類の甘い…… 甘過ぎる……これは、砂糖菓子の匂いか。 それに気づいた跡部は、顔色を変えてテラスに巡らされた柵に飛び付き、慌てて周囲を見回した。 鬱蒼とした常緑樹の森。屋敷のレンガ壁。見えるのは、見慣れた風景のみ。変わった事など何もない。 しかし、一度捕らえた匂いは纏わり付く様にその存在を主張する。 ふと……下ばかり覗き込んで居た跡部は、視線を上げた。目の前には月。勿論、月から匂いなどしないが…… 後ろを振り向いて、テラスのずっと上、屋敷の屋根の一番上、今や物置になっている一番高い塔の影に……人影を見つけた。 そこからの動きは早かった。 柵に足をかけて蹴り上げれば、その体は軽く宙を舞い、身長の三倍はあろうかという屋根に事も無く着地する。まるで翼が生えている様な……実際に生やす事も出来るには出来るが、跡部にとっては邪魔でしかないただの飾りだ……柔らかさをもって足音を立てずに降り立った跡部は、数メートル先に迫ったその人影に、これ以上なく低く声をかけた。 「……おいリョーマ」 「っ!!?っーーーっ!」 その人影はビクリと飛び上がった途端、不思議な動きをした。 喉を両手で覆ったかと思うと呻き声を上げ、今度は屋根に突っ伏する様に倒れたかと思ったら握りこぶしでそこを叩く。 驚いたのは跡部だ。 何事か、と先ほどまで飢餓感もすっかり忘れ、その人影に駆け寄り抱き起こす。 「どうしたっ、何が……!」 「んーーっ!!んっ!」 「……?」 瞳を涙で潤ませながら訴え様とするその人物は……どうやら何かを喉に詰まらせた様だ。 小柄な背中を引っ繰り返してドンドンと何度か強く叩けば、今度はゲホゲホ咽始める。 そして……ようやく落ち着いた。 「……っ、死ぬかと思った……!!急に声かけんなよ!!」 「っ……俺は」 「あー、マジ、やばかった。目の前チカチカした」 「……悪ぃ」 本気で肩で息をついている姿に何だか悪い事をした気になってしまい、跡部は小さく謝罪を口にする……が。 「……って、何で俺が謝ってんだ……!?」 「何でって、当たり前じゃん。人を殺しかけといて」 「元はと言えばお前が……!!」 「何」 そこで跡部は口を噤む。 目の前の小柄な少年は跡部の待ち焦がれたその人であったのだが……如何せん、予知夢めいた夢を観て、勝手に期待して、一方的に待っていた……と言えなくもない自分。少年は、いつの何時に行く、なんて丁寧な知らせはよこしておらず、跡部の屋敷の敷地内に勝手に入り込んでいたとは言え、結局はどこで何をしていようが文句など言えはしない身だ。 黙り込んでしまった跡部を一瞥して、リョーマと呼ばれた少年は、服についた埃を払った。 その時に一緒に零れ落ちた肌色の欠片を見つけ、どうやら先ほどの甘い匂いは、彼の食べていた何かからなのだ、と分かる。 「何食ってたんだ」 「んー?カボチャパイ。さっき村の人がくれた」 「村……?お前、村に降りたのか……!?」 「うん」 「ばっ……お前、何考えて……!!」 「大丈夫だよ、今日は」 リョーマは少し伸びをした。それと同時に、その背中に生えている黒い翼もぐぐっと伸びる。 「何か、ハロ……ウィン?だっけ。そんな祭の日らしいから」 「ハロウィン……?……なるほど」 こう長年生きていると、別種族の習性なども、興味がなくとも知ってしまう。 人間達の……特にこの辺りの国一体はその色が濃かっただろうか。所謂、死者の霊だったり魔物の類を寄せ付けないためにする祭の一種、と記憶している。 その日には、それらのものを驚かせるために、仮装をするとかしないとか……その手の話も聞いた事がある。 だから少年の、この隠れる事のない翼さえ、仮装の一種と思わせる事が出来たのだろう。 「よく出来てるねぇ、とか言って、パン屋のおばさんがくれたんだけど。結構旨かった」 透かせば月光を映すほどに薄い、それでいて強く美しいその翼をチラリと見てから、リョーマは屋根に置いていた紙袋を拾い上げた。 ただでさえ餓えのせいで嗅覚が研ぎ澄まされているのに、既に空になっているとは言え、紙袋から漂う砂糖の香りは跡部には些かきついものがある。 眉を寄せ、その紙袋を取り上げて小さく丸め放れば、青色の炎に包まれ、紙袋は消えてしまった。焼かれた臭いさえ残さず。 しかし、その菓子の残り香は……たっぷりと、少年自身に染み付いてしまっている様だ。 「所でさ」 その香りにしかめっ面を隠せない跡部を振り返り。 「……ただいま」 そう、囁いた。 その上に微笑まれれば、跡部も毒気を抜かれてしまう。 小さく溜息を吐き、腕を伸ばせば、素直に飛び込んでくる小柄な体。 畳まれた翼ごと強く抱き締めれば、腕の中でクスクスと笑う。 「遅ぇ。何ヶ月経ったと思ってる」 「ごめん。でも、アンタにとっては一瞬みたいなもんでしょ?」 「一生分で換算すると、だろーが。数ヶ月は数ヶ月だ」 「それもそっか」 耳元で笑う少年の首筋から、砂糖とは違う、極上の香りが漂っている。 薄い皮膚の向こうに脈々と流れる紅い紅い血が、咄嗟の事に忘れていた餓えを一気に引き戻した。 了承を取らなければ、いくら契約を交わしているとは言え、憤怒の如く怒るのがこの少年だ。どんな手酷い仕打ちを受けるか…… 思い出したくもない経験がフラッシュバックする様で。 また数ヶ月もこの餓えを引き摺るのだけは……御免だ。 一瞬。跡部が迷っている、その正に一瞬だった。 肩口を、ぴちゃりと湿った舌が這い、熱い吐息が触れる。 目を見開いて密着した体を離そうとするが……時既に遅し。 「っーーーっ!」 皮膚が破られる鈍い音と、激痛。 そして続くのは……言い様の無い、快感。 顔を歪めながら目を硬く瞑り、小さく呻いた。 まるで心臓が肩口へ移動してしまったかの様に、どくどくと脈打っている。そして、そこに口を付けては喉を鳴らすリョーマ。 暫くそうした後、ゆっくりと口を離した。同時に、出来た傷口を擽る様に舐め取って、消してしまった。 「っ……何でお前が先なんだ……」 肩口に腕を当て、頬を高潮させた跡部は低く唸る。 「喉にまだパイが引っ掛かってるみたいで気持ち悪かったから。……ごちそーさま」 そう言って薄く笑って、鋭く尖った牙を見せ付ける様に舐める。舌も、唇も、そして牙さえも。跡部の血で紅く濡れて、その様は異様に官能的だった。 「どんな理由だ……!」 「あっちは前菜、こっちはメインディッシュ。デザートは……」 リョーマの言葉を最後まで聞かず、跡部はその体を引き寄せる。 その勢いのまま牙を立ててしまおうと口を開く……が。 「ストップ。まだ良いなんて言ってない」 そんな、自分はどうなんだ、と怒鳴りたくなる様な言葉を吐いて、その掌は跡部が狙いを定めていたその首筋を覆ってしまう。 「いつも言ってる事だろ。……何回も言わせるな」 その種族の象徴、琥珀色の瞳が強い光を孕んで跡部を睨みつける。 血を抜かれた自分と、摂取した彼と。普段なら易々と押さえつけられるその体も、今では力の差が引っ繰り返ってしまっているはずで。 ……怒らせるわけには行かない。 最高潮の苛立ちを無理矢理押さえつけながら、跡部はその体を離した。 「ってーか、焦り過ぎ。こういうのは順序があるじゃん」 「お前が言うか……」 「それもそっか」 幸い、怒ってはいない様だ。 リョーマは笑って背を向けて、畳んでいた翼を一気に広げた。 「おいっ、待……!」 跡部が腕を掴むより一瞬早く空に飛び出した少年は、大きく二つ羽ばたいた後、先ほど跡部の居たテラスへと降り立った。 顔は見えない、が、「早く来れば」と……そんな言葉だけが聞こえて来る。 テラスの向こう……その部屋は寝室。その血を吸う事を唯一許される場所が、そこである。 「ったく……」 呆れてものも言えないとはこの状況の事。けれど、これこそが所謂リョーマのペースなのだから。 ただでさえ乱されがちの自分のペース。特に今は……大人しく従うしかないだろう。 翼は生やさぬまま屋根を蹴り、跡部はテラスへと降り立つ。 月明かりで十分。ロウソクの消えた部屋でも、跡部のベッドの端に腰掛けてこちらを見遣る少年の、光る瞳はよく見える。 ―――覚悟してろよ。 言葉にせぬまま瞳を見返せば、リョーマは少し、眉を上げて。そしてゆったり微笑んだ。 似ている様で違う。 血を分け合う恋人達の夜は長い。 END (2007/10/31) 吸血鬼×蝙蝠……だったんだ、よ! 設定活かしきれてない感ありますけど、多分、公開したパラレルはこれが初めてかと思います。 そんな訳で黒蜜の初(多分)パラレル。如何でしたでしょうか。 去年のハロウィン頃に考えてたネタだったんですが、今年やっと書けました。 って、去年のハロウィンも先にリョーマが噛り付いちゃってます。リョーマ攻め攻めです(笑/いや受けですけど) 吸血鬼やら蝙蝠やらに吸血された経験は無いので知りませんが、ただ痛いだけじゃなくて、 ちょっと有り得ないくらい気持ち良かったらエロくて良いなぁ、と思って。 リョーマが寝室でないと血を吸わせないのは、そのためです。エロい展開になるからです。 跡部も後でたっぷり吸わせて貰ってると思います。そうじゃないと可哀想。 そんな訳で、Happy Halloween!! お持ち帰り自由のフリーSSです。出所明記&一言報告頂けたら嬉しいです。 INDEX