08.譲り愛



―――ダルい。
口に出して言った訳ではないが、心の中にふわりと浮かび上がってしまった言葉だった。
病は気から、と言うが、あれも強ち嘘ではない。
例えば自分が試合に挑む時、負けるという事を考える事はない。もしも、という言葉さえも過ぎらない。勝利しか見えていないからだ。
極論、それと同じ事だと思う。
体調を崩すんじゃないか。怪我をするんじゃないか。……心配は結構だが、それで尻込みしていてどうする。
だからこそ、そんな言葉が過ぎるなど……あってはならない事なのに。

そう思いながらも、こみ上げて来る悪寒には逆らえず、跡部は背を震わせた。
暖房の効いた高級車の車内が、寒いなどという訳がない。
その上今日は、氷帝指定のブレザーの上着を、この冬初めておろしたのだから。
……その時点で、朝から調子が悪かったという事か……と。気づくのが遅すぎた今、どうする事も出来ない。

窓ガラスに映る自分は、相当機嫌が悪い。
それもそのはず。自己管理はアスリートの基本だ。結局はこの身が一番の頼りなのだから、少なくとも自分の体調くらいは管理出来なければ何も始まらない。
その上自分は、多くの前に立つ人間だ。
先日も、体調を崩して部活を休む、だとか連絡を入れて来た部員に、「自覚が足りねぇ」と言ったばかりで。
……それでこのザマでは、まるで示しがつかないというものではないか。

微熱でもあるのだろうか、頭がボーっとする上に、寒いのに熱いという風邪特有の症状が出始めている。
自然と吐いていた重い溜息に、舌打ちをした。
帰宅したら医者を呼んで、薬を処方させて。明日の朝を、何事も無かったかの様に迎えられる様に。
そう思いながら、見慣れたガラス越し、通学路の並木道を横目に、跡部は目を閉じた。





車がゆっくりと停車した事に気づいて目を開ければ、執事の手によって後部座席のドアが開かれた所だった。

「おかえりなさいませ、景吾様」

SPが揃って頭を下げた頃、ワンテンポ遅れて自宅の敷地に降り立った跡部は、重い足取りで観音開きの扉に向かった。
内側からメイドの手によって開かれた、緋色の絨毯の廊下に足を踏み入れるが、この時ばかりはとてもとても広い自宅の面積を面倒に思う。
いつもよりやけに遠く感じる自室に向かうが、歩くたびに揺れる体が重く、思わず今度は「ヤバい」と思ってしまう。

「景吾ぼっちゃま、御顔色が優れない様ですが……」

いち早く跡部の異変に気づくのはやはり執事で、運転手から受け取ったテニスバックを大切そうに抱えながら、跡部の斜め後ろを歩く。
その声に「ああ」と返し、医者を呼ぶ様に告げると、息苦しいネクタイを緩めながら今一度溜息。
その返事に、大変だとばかりに顔色を変える執事だったが、その後に続いた台詞に、跡部は歩を止める事になった。

「それでは本日はお引取り頂いた方が……」

お引取り?

「客でも来てるのか」
「はい、越前様が先ほど」

跡部は目を見開く。
アポ無しの突撃来訪は今に始まった事でもないが、それにしたって今日は平日で。
互いの共通の休日は水曜。だが今日は木曜で、言うなれば彼がここに居るはずのない日だ。

「私が越前様にお伝えいたしますので、景吾ぼっちゃまはすぐにでもお休み下さいませ」

部屋へ向かう道すがら、手近に居た使用人に医者の手配をさせながら、心配そうに執事は言う。
跡部は歩を進めながらも、先ほどから止まらない悪寒半分、何故今日彼が、という事で頭がいっぱいで。
元より熱で、普段より回転率の悪く感じる頭。考えても答えなど出るはずもない。

「いや……」

気がついたら、こう言っていた。

「いい。それくらいは大丈夫だ」





「……おかえり」

部屋の中央に位置するソファに座ったリョーマは、小さな声でそう言った。
目の前のコーヒーテーブルには切り分けられたロールケーキと紅茶と思わしきティーカップ。珍しく、ケーキが手付かずのままである。

「どうした……今日は木曜だろ」

平静を装いながらソファに近づいて、しかし向かいに置いてある一人掛けソファに腰を下ろす。
もしかしなくても自分が風邪をひいているとしたならば。あまり近づいては、感染させてしまうかもしれない。

「ん……ちょっと、部活にならなくて」

聞き取れないでもないが、囁く様な声で話すリョーマ。
不思議に思うが、頭に響く大声よりは良い。
そう思って、続きを促す。

「部活にならない?何だ、病気……だったらココにも来ねぇよな。何があった」
「うん……まぁ、ちょっと」

そう言ったリョーマは立ち上がり、テーブルを避けて跡部に近づいた。
跡部は驚くが、まさか、近づくな!などと叫ぶ訳にも行かず。一瞬で、リョーマは跡部の目の前までやって来る。

「ごめん」
「……?」

囁く様な謝罪が聞こえた次の瞬間。
空いたスペースに膝を入れて体を屈めたリョーマは、跡部の顎を捕らえてその唇にキスをした。

呆気にとられた跡部は、熱で反応が鈍っていたせいもあり、それを拒む事が出来ず。
しかもその隙を突いて舌まで捩じ込んで。
なかなかお目にかかれない様な積極的過ぎるキス。しかも体勢的に押さえ付けられている事もあり、また、体に力が入らず突き飛ばす事も出来ない。
そして、結局乗せられてしまうのは、惚れた性というやつだろうか。
脳内では「風邪をうつす!」と警鐘が鳴り続けているのに、まるでコトの始めや最中の様なキスが終わったのは、数分が経過してからだった。

「なっ……にしてんだよ」

少々乱れ気味の息を整えながら眼前の顔を見上げるが、リョーマは自らの右頬を擦りながら、相変わらず小さな声で呟く。

「うつった……かな」

その言葉に驚いたのは跡部だ。
まさかリョーマは自分の風邪に気がついていて、それを引き受けようとでもしたと。
……そんな訳はない、か。有り得ない。

「何だよ。ちゃんと説明しろ」

風邪をうつす、という危惧はもう今更だ。跡部はリョーマをソファに座らせ、自らもその横に座った。
するとリョーマは観念した様に肩をすくめ、口を大きく開いて。
右の、口内を指差した。
先ほどまで、かなり身近だったその口内に視線をやった跡部は、自慢のインサイトで目ざとくソレを発見する。
右奥歯のど真ん中。黒い黒い、虫歯。

「……お前、まさか……」
「虫歯、痛すぎて走れなくて。そしたら乾先輩が、虫歯はキスをすれば人にうつるとか教えてくれたから」

それで、うつしに来た、と。
青学きっての頭脳プレイヤーでデータマン・乾。それを高く評価していた昔の自分にはさよならだ。
今頃きっとあの例のノートには、何やら余計な記述が書き込まれているのだろう。
何て事だ、と。跡部は頭を抱える。

「あのな」
「ん?」
「確かにミュータンス菌の行き来で虫歯はうつるかも知らねぇが、だからって元が治るって事でもない」
「……えっ」
「……やっぱりうつせば治ると思ってやがったか」

脱力した跡部は、ついでとばかりに付け加える。

「それから。お前、何か気づかなかったか」
「何かって……」
「俺の、体温」
「……いつもより、熱、かった……?」
「俺に虫歯うつすついでに、お前は風邪を貰って行った訳だ」

何で早く言わないんだよ!とか、元はと言えばお前が!とか。
大声を出せないリョーマと、発熱している跡部の短い言い合いの後。

「歯医者も呼んでくれ……」

直通電話にて、執事にそう告げる跡部が居たそうな。





おだいじに。






「譲り愛」と言うより「押し付け愛」と言うか(笑)
キスはミュータンス菌(虫歯菌)の交換だ!という事を保健の授業で習って以来、いつか書きたかったネタでした。
この後、風邪菌とミュータンス菌がどうなったのか。それは、ご想像におまかせという事で。 


(2007/12/07)




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