01.恋し愛
例え前日の夜何時に眠ろうとも、越前リョーマが目覚まし時計の促しに素直に従った事はない。人間が必要とする平均睡眠時間を大幅に越す、寧ろ摂り過ぎだとも思える程に眠ったとしても、彼はやはり、けたたましく鳴り響く電子音を無意識に叩き切り、尚一層深い眠りの世界へと沈んで行くのだ。
しかし、その日だけはいつもと違った。ピピピ…と鳴り始める『ピ』の時点でそのスイッチはオフされてしまった。存分に鳴り響く事の出来なかった小さな穴のスピーカーが、空気を震わせ損ねて微妙な余韻を残す。
リョーマは体を起こした。眠りはけして深いとは言えなかったのに、頭も目も完全に覚めてしまっている。しかもいつもの二の舞を踏まない様に、と早めにセットしておいたアラームのせいで、予定時間よりも一時間も早い。何度文字盤を見つめても、やはり一時間。けして止まる事のない秒針も、何だか必要以上にとろとろと進んでいる気がする。そしてどれだけ見つめようとも、一分は六十秒経たなければ過ぎず、一時間は六十分経たなければ過ぎないのだ。
小さく溜息を吐いて、リョーマはベッドから抜け出た。休日の起床時間としてはかなり異例の、平日の起床時間としても十分なほどの。カーテンの向こうの太陽は、朝らしく穏やかな光を運んで来ていた。階下では物音が聞こえる。自分としては早過ぎる時間でも、主婦業をする者にとっては通常通りの様だ。けれどまだ朝食の準備は出来ていないだろうし、こんな時間に起きて行って驚かれるのも不快。と言うか、居心地が悪い。そう思って、外しにかかっていたパジャマのボタンを中途半端なまま放置した。もう少し……せめてあと三十分は寝ていた事にしなければ。
リョーマは今一度ベッドに横になった。その際に引き連れてきた、ベッド下に乱雑に積まれていたテニス雑誌を開きながら。かと言って先々月号のそれはもう何度となく読み込んでいるので、優勝選手のインタビューも詳しい解説の付いた特殊な打球の打ち方も、グラビアを捲るのと同じペースで捲られていく。そこではニューモデルとされているラケットも、既に次のモデルが発売されていた。そう言えば一番よく使うラケット、エッジガードが大分傷ついていたっけ。新しいものに替えないと、そろそろ危ないかな……などと頭の片隅で考えながらも、見ている様で見ていない雑誌のページは進んでいく。
最後のページを捲り終わって時計に視線を流せば、長針はやっと十分ほど進んだ所だった。何で、とか、壊れてんじゃないの、とか。悪態を吐くにも脱力してしまっては出来なくて、リョーマは雑誌を押し落とし、枕に突っ伏した。中に八分目ほど詰まったパイプがザリ、という音を立てて鼻に鈍痛が走るが、横を向いて溜息を吐けばそんな事は忘れた。
―――じゃあ、明日十一時に。
昨夜寝入る前の電話で、念を押す様に何度も「遅刻をするな」と言って来た彼は、何故自分が遅刻魔だという事を知っていたのだろうか。「分かってる」と、少し拗ねた様に返したら、電話の向こうで笑っていた。関東大会初戦の日は、ちゃんと集合時間に間に合っていたはずで。ならばどうして……なんて考えていても答えは出ない。絶対に起きてやる、と意気込み過ぎたのか。いつもこうだったら、部長にグラウンドを走らされないで済むのに。
時計を見る。先ほどからやっと二分経った所だった。ボーっとしている時間は過ぎるのが早いはずなのに。もしかしたら、ボーっとしながらも何だかんだ考え事をしているのがいけないのだろうか。ならばどうしろと言うのだろう。この無駄な時間を、少しでも有効に使ってくれる人へとプレゼントしてしまいたい、とさえ思う。
あれから……あの日から。時々、主に放課後に時間を見つけては少し打ち合ったりしている。とは言っても、部活ではカバーし切れない細かい部分や、先輩から出されるハードな自主トレメニューをこなしながらとなると、フルの試合を吹っ掛けるには少し、体力的にも時間的にも問題があった。だから殆どがトレーニングの成果を自分で見定めるためのラリー練習。青学にはオールラウンダーが自分以外には部長しかいないので、癖の無い返球が欲しい時に、彼の存在はとても有難かった。
けれど流石に少し申し訳なくなって、僅かではあるがお返しをしようかと思い、缶ジュースを奢ってみたり、鞄に入っていた煎餅をあげてみたり。でも「気を使うなんざお前らしくねぇ」なんて苦笑しながら言われると、俺の何を知ってるって言うんだ、と怒るより前に自分で納得してしまった。確かに、そうだ。
けれど……と、リョーマは思う。らしくない、と言うのなら、今日の自分が正にそうだろう。大切な試合の当日ですら平気で寝坊する自分が、こんなに早く目を覚まして時間が経つのを待っている。でも、その理由はよく分かっていた。幼い頃から何度となく、もう数えきれないほどに迎えた試合当日の朝と、今朝はまるで違う。だから、起床事情が違うのも当然……なの、だろうか。
「……ワケ、分かんない」
口に出せば余計にそう思った。
昨夜もそうだった。携帯が鳴り、サブウインドウに彼の名前が表示されると、いつも一瞬躊躇する。早く出なければ。我に返って慌てて受話する瞬間の、通話ボタンを押す時の、妙な気分。第一声の「もしもし?」がやけに低くなってしまうのは、そのせいだ。「俺だ」と言われて、他の誰がアンタの携帯からかけてくるんだよ、なんて返す事が出来ないのも、そのせいだ。
それは、高揚感の様で、少し違って。腹の真ん中から何かがじわじわ広がる様な、じっとしていられない様な。
リョーマは、今朝から数えて数度目の溜息を吐き、目を閉じた。
狂わされている。その要因は間違いなく彼にあるのだろうけれど、原因が同じだとは……言えない気がした。
ふっと体が浮いた様な感覚を覚えて、リョーマは目を開けた。何だか視界がぼやける。数回瞬いて、欠伸を一つ。ああ、昨夜はいつもと比べると全然眠れなかったから…… と。再び体を起こすが、どことなく重たい感じがした。思い切り伸びがしたい。そう思って体を伸ばそうとした、その時だった。
部屋が、妙に明るい。穏やかだった黄色い光に、強みが増している。全体的に光度が上がっている様に思う。
それに気づいた瞬間、リョーマは枕元の目覚まし時計へと飛び付いていた。短針が指すのは、十と十一の間。長針が指すのは、八の文字。……十時四十分。
思わず息を飲みながら硬直しかける体を無理矢理動かして、大慌てで半ば脱げかかっていたパジャマから抜け出る。それらはベッド上に投げ捨てたままタンスに走り、途中テレビに繋ぎっぱなしのゲームのハードに小指をぶつけたりしながら服を着替え、鞄を持って脱兎の如く部屋から飛び出した。リビングから何事か言っている父親は無視して洗面所に向かい、顔を洗って歯を磨いて寝癖は……帽子で誤魔化すしかない。ドタバタ言わせながら廊下を走り抜ける。
「リョーマさん?朝御飯出来てますよ」
「ごめんいらない!」
「でも、今日はリョーマさんの好きな和食……」
「いってきます!!」
罪悪感がない訳ではなかったし、急いでいても卵焼きと焼き鮭の香りには気づいていた、けれど、今から朝食を摂っていたら完全に……抜きで行っても変わらないが…… 間に合わない。スニーカーの踵を転びそうになりながら直して、家を飛び出した。
途中、鞄に突っ込んだ携帯から軽快なメロディが流れていた。それが誰からのものなのか……そして確認するまでもなく、約束時間が過ぎている事に気づいてはいたけれど、試合中宛らの全力疾走で上がった息では、まともに受け答えなど出来ない。それに何より、電話しながらでは全力疾走出来ないじゃないか。
最寄り駅から飛び乗った電車の中でも、ああなんて遅いんだこの普通電車!とじりじりしながら三駅過ぎて、改札へ向かう階段を二段飛ばしで降りて。改札を抜けた噴水広場に、深い艶のあるアッシュグレイを見つけた。
胸が痛い。動きを止めた途端、全身から汗が流れるのが分かる。深呼吸をしようにも息切れが邪魔をして、喉が変な音を鳴らしていた。
今なら分かる。この、全力疾走の果ての体と、似た様な現象。あれは……緊張だ。
此方に気づいた彼が背を預けていたポールから離れ、不機嫌そうな顔で近づいてくる。その背景に映り込んだ大きなデジタル時計には……大遅刻の証明がしっかり刻まれていた。
「っ、ごめ……っ」
薄い唇を開きかけた彼が言葉を発する前に、搾り出した声で謝る。精神的にも肉体的にも顔を上げられなくて、俯いたまま肩を上下させて。ぐっと唾を飲み込んで、怒鳴られても今日ばかりは我慢して謝るしかない、そう思っていた時。
「やっぱり寝坊したな」
響いた声が存外優しかったから。
顔を上げた先に居た彼は、呆れた様な顔で、笑っていた。
初めての待ち合わせは落第点。でも、何でそうなったかを考慮に入れて貰う訳には……いかないかな。
とりあえず、何か飲ませて。それから、ちょっとくらい言い訳を聞いて貰おう。
……という事で、跡部誕祭2007、の1個目です。初デート(待ち合わせ)です。
うちのサイトにあるものの中でも最強レベルの甘さかと思います。と言うか、リョーマが乙女です。
一応2006年ものからの続きな感じで書いたんですが、この豹変っぷりは……どうだ(笑)
誕生日くらい思いっきり愛されるが良いさ、と半ばヤケになりながら書いたんですが。
何となく、青酢の某曲とか、べスアク立海D1の某曲とか。そんなイメージです。爽やか!
こんな感じ……ばかりではないと思いますが、これから暫くお祝いモードで。
お付き合い頂けますと幸いですvv
(2007/10/04)
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